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「学ぶこと」の効用について

ふとしたきっかけで、今までぼんやり考えていた3つのことがつながったので、それについて書いてみる。

さとのば大学主宰の信岡さんの言葉

2020年から地域事務局(南相馬)兼メンターとして関わっている「さとのば大学」。オンライン講義と地域留学の両軸で学びを深める教育プログラムだ。
https://satonova.org/
そのプログラムを主宰している株式会社アスノオトの代表、信岡さんがよく言っている言葉がある。

「学びはやさしい」

僕の言葉で解釈すると、以下のようになる。

他者や知識にふれて学ぶことが、自分についての気づきを深めてくれる。自分についてより知れると、自分の好きなこと、やりたいこと、人と違うところを深く理解し、大事にできる。つまり、自分にやさしくなれる。
そして、自分の固有さを大事にできるようになると、他者の固有さも同じように大事にできるようになる。つまり、他者にやさしくなれる。

この解釈があっているかどうかは分からないが、信岡さんのあり方も含め、この言葉に強く共感したことが、さとのば大学に関わっているひとつのきっかけだと思う。

社会学を学ぶ意義

僕は大学で社会学を学んだ。自分で言うのもなんだが、結構「ハマって」真面目に研究に取り組んでいた、と思う。だからなのか、いまも、社会学関連で興味のある書籍はつい手に取ってしまう。(そのうち、ちゃんと読み切れるものはわずか、、笑)
数年前に出版された『社会学はどこから来てどこへ行くのか』(2018年、岸政彦・北田暁大・筒井淳也・稲葉振一郎著)を読み、当時心に残った箇所を書き写していた。その一節を抜き出す。

岸 前回の対談の終わりに、「隣人効果」の話をしました。社会調査、特に生活史やエスノグラフィーって対象になっている人びとの行為の理解を通じて、「誰でもこの状況だったらこうするだろうな」という感覚を広げていくことで、「自己責任」を解除する働きがある。しんどい状況にある人びとの行為選択に対して、私たちはつい自己責任論理を突きつけてしまいがちなんだけど、そういう社会学的理解によって、なんとかしてしんどい状況にある人びとに、成りかわって同じことを経験することは無理にしても、せめてその「隣に立つ」ぐらいはできるのではないか。

つまり、自己責任解除装置としての社会学。この考え方、すごくいいなと思ったので、そのまま書き写していたのだ。
自分がなぜ社会学に魅かれたのか、学ぶことを楽しいと思えていたのか。大学卒業後もぼんやり抱いていた問いに、ひとつヒントをもらえた気がした。
ちなみに岸先生はこの後に、一見矛盾するような「社会に生きるものとしての連帯責任」という話もしていて、両方あることが大事だなと僕も強く感じるので、併せて読むことをオススメします(78ページあたりに出てきます)。

「コミュ力ない」は誰の責任か

今回のnoteを書こうと思ったのは、GW中に書籍や荷物の整理をしていて、この本を久しぶりに引っ張り出してパラパラと読んだからだ。

『わかりあえないことから コミュニケーション能力とは何か』(2012年、平田オリザ著)

本のタイトルの通り、この本は「近頃の若者はコミュニケーション能力がない」と言われることに対し、それは本当なのか、本当だとするならなぜなのか、そしてどう解決していけばよいのかを、具体的な実践例も含めて書いている。
この本は大学時代、自分が所属していた研究室の書架にいちはやく置かれて、教授がオススメしていたのだ。借りて読んで感銘を受け、結果自分でも買って、折に触れて読み返している。
この本の内容のすばらしい部分は数多くあるのだが、ひとつ挙げるとすると「ある課題や問題に直面したとき、徹底して、個人の責任ではなく、社会の責任として現状を分析している」点にある。
以下に、その視点を感じる一部分を抜粋してみた。

 いま、医者の卵、たとえば25歳くらいになっても、身近な人の死を一度も経験していないという学生は珍しくない。祖父、祖母が亡くなっても、一緒に暮らしていたかどうかによって感じ方も大きく違うだろう。
 身近な人の死を一度も経験したこともなく医者や看護師になるというのは、一般市民からすれば、たしかに不安なことだ。そんなことで患者や家族の気持ちがわかるのだろうかと思ってしまう。ではしかし、その学生を教育する立場の者が、「身近な人の死を経験もせずに医者になんかなれるか!とっとと経験して来い」と言えるだろうか。いったい、この体験の欠如を、学生個人の責任に帰せるのだろうか。
 (中略)こうして時代が変わった以上、あるいは、こういった少子化、核家族化の社会を作ってしまった以上、私たちは、これまでの社会では子どもたちが無意識に経験できた様々な社会教育の機能や慣習を、公教育のシステムの中に組み込んでいかざるをえない状況になっている。

オリザさんの視点が良く分かる一節だと思う。「他者の気持ちが分からない若者」と個人に責任を帰してよいのか?そんな若者をうみ出す社会にしてきたのは他ならぬ自分たち大人ではないのか?という問い。僕はこの視点を、やさしく、誠実なものだと感じる。

ーまとめー 「学ぶこと」について 

自分が大事にしたいな、と思って頭の片隅にしまっておいたことが、「学び」「やさしさ」というキーワードでつながった嬉しさを残しておきたくてここまでつらつらと書いてきた。
自分が大切にしている「学び」ということが、どういう意味を持っているのか。そんな問いに、ひとつ自分なりの理解ができた気がする。
そして、書き終わっていま、こう感じる。

あ、なーーんだ、俺はやさしくなりたかったのか。笑
そして、社会にやさしくなって欲しいんだな。

なんか青臭いな。笑
恥ずかしくなってきたのでこのへんで(・ω・)ノ

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