見出し画像

音楽鑑賞とMV鑑賞は違うという話

前回の投稿からだいぶ空いてしまいましたが、書きたいことがなかったのでお休みしていました。ふと思ったことをもう少し気軽に言葉にしていこうと思います。

今回のお話は、音楽鑑賞とMV鑑賞は違うという話です。最近はもっぱらYoutubeでアーティストの名前を検索して音楽を聴いていましたが、同じ曲をApple musicでスピーカーから聞いてみると、感じ方が全く違うことに気づきました。それはもう全く違う曲のように。

なぜ感じ方が違うのか。考えてみたところ、制作者からの情報が音だけだからだと思いました。

MVは映像と音楽の両方を同時に鑑賞するものです。ですから、一度に入ってくる情報が多く、その上相手のペースで作品を鑑賞していることになります。

本来多くの芸術鑑賞は自分のペースで見ることが重要になります。

例えば美術館に行ったとき。開館時間内では、一つの絵画の前に何時間立ち尽くしても構いません。逆に惹かれない絵は素通りしたとしても誰にも怒られない。漫画や小説のページをめくる手の速度は人によって違うように、一つの作品に対する時間は人によって違います。いわば旅をしている感覚。

それがMVは作品を鑑賞するペースを完全に制作者に握られることになります。いわば不自由な鑑賞です。それは映画も同じで、いわばジェットコースターに乗っているアトラクション的なものです。

漫画とボイスコミック(漫画のコマを一枚一枚画面に表示していき、それに声優が声を当てる)が別物であるように、MVと音楽は似ているようでその理由で違うものだと思います。

技術の発展によって、作品に対する鑑賞の仕方がどんどん多様化しています。特に最近では映画をVODで見るとき、忙しさから倍速で見る人が出てきているくらいです。

映画鑑賞ではストーリーの展開と役者の表情という限られた情報だけがわかればいい、という価値観の人にとってはそれでいいのかもしれません。しかし、音楽を倍速で聞けば全く違う曲になるように、映画も倍速で見れば製作者が表現した余韻や間合い、空気感すらも倍速機能という技術の進歩がもたらした力によって後ろに追いやられてしまうと思うのです。

こういう話を聞くと、本当に情報に心を奪われてはいけないなとつくづく思います。

人の成功や評価にも同じことが言えます。先人の成功例を追いかけて勝手に焦り、成功というありもしないものに早く楽に確実に道を踏み外さずたどり着くために躍起になっている人がどのくらいいるのでしょう。こういう焦りはいわば、「あの人はこれを成し遂げて成功したらしい」という情報を追いかけて、これをやれば自分も同じところまでいけると勘違いしてしまうことにつながるのだと思います。でもその情報は一側面に過ぎず、その裏には、その人が失ったものや感じている苦しみ、かかわった人々の存在があります。

人間も作品も、「情報」ではありません。見た目や成功だけがすべてじゃないように、作品もストーリーやわかりやすい面白さだけがすべてではありません。それを見た人、存在する場所によってその様相が変わる「水」のような流動的なものです。

時には興奮し、沸騰もします。心無い言葉に傷つけられ、凍結もします。地震が起きれば大きな波が起こり、何かを破壊してしまうこともあるかもしれません。

重要なのは、そういった自然の変化を拒み、津波が起こらないように祈るのではなく、変化を受け入れ、波を乗りこなすことだと思います。

人はなぜ作品を作るのか、表現をするのか。

それは、人それぞれの理由はあります。気持ちを静めるため。承認されるため。自分の存在を世界に伝えるため。(または、これが最も美しいと思うのが、)単純に面白いと思った、つくりたいという思った気持ちが自然発生したから。

いずれにせよ、生んだ作品は、生んだ時点で完全に自分から切り離された「人間」であり、鑑賞する人によって変化する「水」です。人間にはいいところもあれば、悪いところもある。決して完璧な人間が存在しないように、決して完璧な作品は存在しません。批判され、その言葉が気になっているときは、その「悪い面」という情報にしか目が行っていないという状態です。

随分壮大な話に発展してしまいました。

作品制作と生命の繁栄は似ています。「なぜ作品を作るか」「なぜ子供を産むか」に答えはありません。しかし、どこか境地のようなものに到達するためや、自分の欲を満たすためではない。

ひとえに、「感動を与え、感動を受け取るため」なのではないかと個人的には思います。そのギブアンドテイクが人の人生を豊かにするのではないか。

親にとって子供は自分以上。自分にとって作品は自分以上。

つまり、私は作品至上主義です。そういう話でした。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?