デッドデッドデーモンズデデデデデストラクションに学ぶ、自ら変化を起こすということ
この記事は、「アニメから得た学び Advent Calendar 2024」の21日の記事です。
https://adventar.org/calendars/10129
20日目の記事はおくらさんの、「宇宙よりも遠い場所」から学ぶ!ワクワクだけじゃ終わらない目標設定の最大活用!でした!
はじめに
※本記事は、「おやすみプンプン」と「デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション」の壮大なネタバレが含まれます。
浅野いにおの「おやすみプンプン」を読み終えたとき、一抹の寂しさを感じたのを覚えています。
両作品とも、共依存やモラトリアム、過去への執着の無意味さ、自意識といったテーマが物語の主軸に近い部分を占めているように思います。浅野いにおは、「普通の人間」の等身大の苦悩や、世界や他者との関わりを描くことに非常に長けた作家なのだと感じます。
「おやすみプンプン」の最終回では、大人になった主人公(プンプン)の幼少期の友人(ハルミン)が、街の中で偶然プンプンとすれ違います。二人は途切れ途切れで噛み合わない会話をひとしきり交わした後、自然と話題が尽きたことを察します。そして、最後に子どもの頃の何気ない思い出を話し、もう二度とお互いの人生が交わることはないと予感しながら、涙ぐみつつ手を振って別れます。ハルミンは、最後までプンプンの名前を思い出すことはありませんでした。
ハルミンという、プンプンにとって他者が「主体」となり、プンプンがその主体にとっての客体となったからこそ見えたものがありました。その景色が物語が終わった後も歳月が流れ続けるという実感へと繋がり、心に深く残ったのだと思います。
デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション劇場版前後篇を見たときの感想は、「こいつはまたすげぇ作品だぜ…….(クソデカ感情)」だったと思います。時間が経ってしまった今、本作に対する自分の感情(とくに何を学びとったのか、という部分)を言語化したり、そのための作品解釈を深めるにはもう一度本作を振り返る必要があると感じ、この機会にアニメシリーズ全18話を完走しました。
アニメシリーズの第0話と第17話では、劇場では描かれなかったその後の物語が、門出の父親である小山ノブオの視点で描かれています。
アニメシリーズおよび劇場版は、現在(2024年12月21日)はAmazon Prime、U-NEXT、Huluなどで配信されています。
https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B0DP3RRKRS/ref=atv_dp_share_cu_r
描かれる対立構造
「青春」「SF」「セカイ系」など多様な要素を取り入れた本作では、さまざまな二項対立の構造が描かれています。
円盤から襲来した“侵略者”と対する地球人たち、"侵略者"たちを狩る過激派団体「青共闘」と侵略者擁護激派団体「SHIP」、「普通の人」と「偉そうにしているクソ野郎」といった人物像の対比はもちろん、変わらない日常と日常を蝕む非日常、異なる時間軸(元の世界と母艦が爆発する世界)での凰蘭と門出の関係、中崩壊した世界と凰蘭と門出の終わらない日常といった対比を通じて、あらゆるドラマが交錯していきます。
共依存の行方
本作で中心に描かれるのは、凰蘭と門出の"共依存"とも呼べる関係です。本作は多くのテーマ性を孕んでいますが、物語は二人の「絶対」の関係性に集約されます。世界がどうであれ、二人が一緒でなければ、物語が完結を迎えることはないのだと予感させられます。
暴走する正義感
作中では、門出が溺愛する国民的マンガ「イソベやん」に「ぶっきらスティック」というアイテムが登場します。作中では、このぶっきらスティックをモチーフにした「異星人のもたらした秘密道具」を巡って肥大化した正義の暴走が描かれます。
「正義」とはなんで、悪人とはなんなのでしょうか。並行世界の門出は決して悪人ではありませんでした。置かれた環境や年相応の幼さゆえに、本来手にするべくもない分不相応な力に溺れてしまったのだと言えます。
これは、DEATH NOTEの夜神月の暴走に被るものがあるようにも思います。
門出は決定的に一線を超えてしまった(人を殺めてしまった)瞬間から、「間違ってしまった」という葛藤を抱えながらも、後戻りができなくなってしまい、自らの正義を肯定し続けるしかありませんでした。
作中では、並行世界の門出に限らず、小比類巻やSHIPの人々など、「自らの信じる正義」に溺れていく人々の姿が描かれます。
自ら"に"変化を起こし、前に進むということ
並行世界での門出の死、母艦爆発後の大切な人たちの死。凰蘭は、物語の節目で二者択一の選択を求められます(侵略者との争いは起こらず平和だが門出のいない世界と、母艦は爆発するが門出のいる世界)。
(凰蘭にとっての)最初の時間軸では門出を救うために並行世界ですべてをやり直すことを選び、その結果母艦が爆発し、世界は崩壊します。渡良瀬も、凰蘭の兄のヒロシも、ふたばたちもいなくなってしまう。
荒廃した世界の中で、手を取り合う凰蘭と門出には一種の諦観を感じます。
日常が非日常と化してからも、終末が迫る中でも、多くの人々は"日常"を過ごしていました。どうにもできないもの(円盤)が頭上にあっても、見てみぬふりをしながら、洗濯物を干したり、スマホでゲームをしたり、学校や仕事に通う。そんなある種の正常性バイアスにあふれた光景が描かれています。
自発的な変化が前向きに描かれるシーンもあります。たとえば作中で凰蘭の成長が描かれた転機として、いじめられそうになっていた門出を庇う(「はにゃにゃフワ~~ッ!真の敵は僕だ!」と教室に乱入する)シーンがあります。凰蘭はもともと内気な性格でしたが、門出を守るために一人称を変え、剽軽なキャラクターとして振る舞うようになります。世界にとって裏目に出たとしても、門出の人生にとってはポジティブな変化をもたらす出来事でした。
アニメシリーズの第17話では、小山ノブオと門出の取ったある行動(それをきっかけに、門出が自ら取った行動)がその後の世界を大きく変えました。
世界や周囲を変えようとする(独りよがりな正義感を振りかざす)のではなく、なんの行動を起こさないのでもなく、自分自身の弱さと向き合い、変えようと行動した結果は、いずれもポジティブな方向に作用していました。
アニメシリーズの第17話では、新しい時間軸での凰蘭と門出の物語が描かれます。
結局のところ、二人が一緒に生きていられるなら、母艦爆発で世界が終わっていようが終わっていないが些細な問題かもしれない。
それでも、平和な世界で未来を生きる二人の姿が見られたのは良かったです。