演歌と乾気、曙と化物

最近、室生犀星の「抒情小曲集」を読んでいる。

(初版装丁。素敵です。時代を感じる)

今をときめく高橋一生の愛読書と聞き、臆面もなく便乗。ミーハーですいません。だって好きなんだもん。

あと、読書好きを謳っているのに、こんな名作を未読ってのもな…っていう、見栄っ張りな理由もあります。しょうもないですね。

が、頁を繰ると、物凄い既視感の連続でした。これ絶対読んだことあるな、と。恐らく子供の時に図書館で、というパターンでしょう。すっかり忘れておりました。

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室生犀星は石川県出身で、詩や短編小説等を遺している。「抒情小曲集」は初期作。季節や旅などを、哀感と若い感性で捉えた秀作だ。
有名なのは「故郷は遠くにありて思うもの…」ってやつですね。

犀星の哀感は「THE日本海」だ。情が深く、湿度が高い。瑞々しさもあるが、基本的には演歌な感性だ。叶わぬ愛をため息と共にうたうような世界観。個人的な印象ですけどね。
余談だが、宮沢賢治も、季節を捉える字句を山と書いているが、表現は全く違う。同じ北国の人間なのにな。
賢治は透明で爽やかだ。湿度は低い。悲しみを描いていても、シニカルだったりユーモアがあったりする。幻想性はそこから生まれるのかもしれないですね。

例えば「春」。犀星は、芽吹きの刹那を捉え、一筆書きのようにさっと描きとめる。そして呑み込まれる。春の儚さと、己の孤独に。さめざめと、あるいはおいおいと泣く。誤解を恐れずに言えば、所謂「四畳半の唄」だ。
賢治はまず、スノードームのような、小さな空間に春を閉じ込める。その中から、星や月や宇宙のような、大きな世界に繋がろうとする。実にファンタジックだ。不思議に浮いた視点がそれを支える。
両者ともに詩人らしい哀しみがある。でも質が違う。その差異は大変に興味深い。

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ところで、自分にとって春とは、大変に恐ろしいものなのであります。「春は曙」ならぬ、「春は化物」。清少納言の陽気さが羨ましい。都の春は喜ばしいのであろうか。
我が故郷の春は、5月だ。GW前後から、一気に緑が芽吹き始める。
雪が溶けて気温が上がると、まず辛夷が開く。それから梅と桜がほぼ同時に。続いてチューリップが地面を彩り、ライラックが追いかける。
大体ここまでで約一ヶ月半だ。その後、薔薇園が徐々に色づく。
短期間にどっと湧く緑のエネルギーはなかなかヘビーです。ずっと地球に鳩尾を殴られているみたいな気分になる。冬が静かで長いせいもあるでしょう。ギャップが辛いのです。若干、躁鬱気味にもなる。
もちろん浮かれている人もいるけど、こんな風にKOされるへなちょこもいるのだ。
そんな訳で春は毎年、ひと通り芽吹きが落ち着くまでは息を潜め、ひっそりやり過ごしております。山菜なぞを食べながら。

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同じ「春」でも、ここまで捉え方が多様というのは面白い事だ。フィルターを育むのは、地域性なのか、はたまた個人差なのか。
とは言っても、柿本人麻呂も清少納言も、ゲーテもハイネも、そもそも見ている景色や内なる感覚が違う。だから、筆致の色彩や温度が異なるのは当然とも言えよう。

ただ、それぞれの語る春、たとえ自分が見たことがない部分でも、何でか少し分かる気がしませんか。犀星の湿り気も、賢治の幻想も、清少納言の明るさも、自分の怯えも。
未経験の風景を、我がものにできるのはヒトの不思議なところだ。もっと言えば、豊かさだ。

みんな違う世界を見ているのに、「春」という概念が私たちを多面的に繋いでくれる。そこには、かすかに希望の匂いがする。




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