奔流カモン

今週もいつものように「TBSラジオ 木曜JUNK おぎやはぎのメガネびいき」。冒頭、小木さんのトークが普段の楽しいゴシップいじりとは違う、珍しい内容だった。
御徒町凧が今度、写真と詩の本を上梓するそうだ。被写体として、小木さんも参加するので、撮影に行ってきたとのこと。
義弟・森山直太朗つながりで、御徒町のことを「ケイ(本名)」と呼ぶくらいに親しい小木さんは、その時の様子を滔々と語った。
「ケイがさ、スケッチブックを持ってて、ずーっと(詩を)書いてるの。俺の、っていうか、撮られてる俺と撮ってる写真家の空気感というか、雰囲気なのかな。とにかくずーっと」。
また、写真家の佐内さんもかなりアーティスティックで、ちょっとした会話の端々をテーマにして「なんか書いて」と御徒町さんにリクエストをしていた、と。それにも容易く応じていたそうだ。
昔はギャンブルをよくやっていた小木さんが、現在「もうプライベートで緊張したくない」と辞めた理由を語った。そのすぐ後に佐内さんが「じゃあ、『プライベートで緊張したくない』で書いて」と振ると、「もう、すぐにペラペラ書いちゃうんだよね」と小木さん。「ペラペラってなんだよ、それを言うならサラサラだろ」と突っ込む矢作さん。
「芸術家ってすごいよね」と、珍しく興奮気味に語る小木さんの熱に、私も引き込まれてしまった。

スケッチブックを手放さず、ずっと何か書ける、ってマジですごい。THE芸術家だ。
そして思い出した。

構想は、あたかも奔流のように、実に鮮やかに心のなかに姿をあらわします。
しかし、それが何処から来るのか、どうして現れるのか私には判らないし、私とても、これに一緒に触れることはできません・・・美しい夢でもみているように、凡ての発見や構成が、想像のうちに行われるのです。
いったん、こうして出来上がってしまうと、もう私は容易に忘れませぬ、という事こそ神様が私に賜った最上の才能でしょう

言わずと知れた『小林秀雄〈モオツァルト〉』より(書影はAmazonにリンク)。

自分の衝動に敏感でありながら、それを正確に表現する手立てを持ち得ているものにだけ、訪れる祝福だ。余談だが、モーツァルト自身の発言(原文)もネットで検索したけど、うまく見つけられなかった。悲しい。

何が言いたいかというと、「自分に足りないものをまざまざと突きつけられた」という話。
平たくいうと読書量と執筆技術の不足です。
衝動はある。無駄にある。生来の性格の悪さと器の小ささ、そしてしみったれた生活は、私に常なる怒りと悲しみを生んでくれる。そして時々現れる光は喜びを想起する。どちらも良い衝動だ。大体からして「何に対してもなにかしらコメントしたい」といううざい性分なのである。「一言多い」と言われ続けてきたこの人生、書くことが解放にならないわけがない。
でも、つまんない誘惑や嫉妬、絶望が口をつぐませる。或いは、単なる愚痴として昇華させてしまう。凡夫ゆえのだささであります。加えて、自己不信の気もあるんだろうな。才能なんてないんじゃボケ、所詮俺だもん、という自己防衛。
何れにしても、みっともない事この上ない。
きちんと基礎を身につけて、いつでも納得できるような形に成型出来る術を手に入れなくてはだなあ。
才能という言葉に、子供の時から常に打ちのめされてきた。憧れ続けて、食らいつきたくて、でも近づけない。色んな天才も見てきた。だからなのか、屈折した童貞マインドは今でもくすぶっている。いい歳してさ。しかし無闇にでかくなった幻想に、圧殺されている場合ではない。

端的に言って、現在の自分が悔しすぎる。腹立つ。いい加減頑張ります。
ここんとこ色々ありすぎて腐ってたけど、そんな暇はない。知ってたけどさ。
とりあえず色々読み書きして、前進します。思いついたことがあれば、此処にもどんどん書く。
戒めのためのエントリでありました。あとやっぱりおぎやはぎは格好いい。一生ついていきます。

サポートいただけたら泣いて喜び、創作活動に活用します。