オマージュとインスパイアとパクリ

芥川賞発表、いよいよ来週だ。楽しみだが、今回は騒動があった。

(上記スクリーンショットは記事へリンク)
一言で言えば、「確認せえよ」だ。

こんな、辺境のブログでも、一応出典や元ネタがある場合は、可能な限り出自を明示している。記者やライター、その他原典制作者への最低限の礼儀だ。大学時代に叩き込まれたせいか、そこら辺の意識は割にちゃんとしている。だって参考にしてるんだもん。当たり前だ。

フィクションの場合、それは実に曖昧だ。たとえば、漱石の「こころ」にインスパイアされて何か書いたとしても、最後に〈参考文献〉として掲載する人は稀だろう。また、「すべての作品は二次創作である」とも言える。悪意や意図がなくたって、今まで見聞きしてきた創作物からの影響は、無意識に入ってしまうものだ。

ただ、今回の場合は、「震災」という現実から着想を得ており、様々なルポや参考文献をヒントに書かれたとのこと。これは明記しなくてはダメでしょう。類似表現に関しては、まあアウトかなと。創作者の脳みそを通してないのが丸わかりだ。心情吐露は描写に変えるとか、やりようは色々あったと思う。

講談社が、騒動を受けて全文公開している。
(スクリーンショットは小説PDFにリンク)

掲載誌は以下。(講談社HPにリンク)

作品の質の高さを褒める向きもある。私も読んだが、良くも悪くも「行かなかった」から書けた作品だと感じた。粗さはあるが、彼女のやりたい事は出来ているのでは、と。こんだけ書けりゃ群像も獲りますよ。

被災地に行かなかった、ルポ読んだだけで書いたなんて、という批判は意味がない。芸術とは、作品そのものだけで勝負が決まる。取材量とか、そういう背景は関係ないのだ。
すぐれた物語とは、作者の幻想が正確かつ明瞭に表現されている作品のことである。言葉のリズムや情景が読み手を引き込み、その世界へ没入させてくれるもの。幻想のレベルが深ければなお良い。
つまり、芸術や文学の本質からすると、上記のような意見は本当にどうでも良い。

今回は、細部の表現を分かりやすくパクってた、ってのが頂けなかったね、参考文献も書かなきゃだったのにね、ってとこだけが問題だ。
群像新人賞は伊達じゃない、力量のある方だと思う。それだけにさ。ギリシャ神話や太宰治をパクる….もといオマージュするにしたって、一応自分流にトレースするもんだ。況してや、現代のノンフィクションからってのはなあ。

まあ、まだ新人さんだし、謝罪も出されていたので、今後は温かく見守りつつ、物書きとしてのマナーは編集さんが目を光らせていれば良いのではないかと。

しかし、新人賞に震災文学、いくらなんでも多すぎるでしょ。前々回の芥川賞もそうだったしな。
自分の身を削るような何かがそこにあれば別ですが、個人的にはこーんなにみんなが書いている題材、絶対に手をつけたくないなと思ってしまいました。

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