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俳優"菅田将暉"の顔

私が俳優"菅田将暉"を真に認識したのはほんの2年ほど前の事。まだ浅い。でもそこからは彼の生み出すあらゆる創作物にすっかりトリコになってしまった。
そんな私が菅田将暉の魅力を語るとすれば、次の二つの要素を挙げたい。

①役へのこだわり

1つ目は、"それぞれの役へのこだわり"だ。
彼は作品に挑む度にそれぞれの役に見事になりきり、そのキャラクターを創造する。その人格が強烈であれ素朴であれ、彼の思惑に私はまんまと惹き込まれてしまう。

彼はいつか言っていた。「教科書の10ページくらいまでは割と難なくこなせる。大事なのはそこからどこまで突き詰められるか」と。

それは、ここぞという局面で見せる"変貌ぶり"にも表れている。
例えば『帝一の國』では敵陣営に陥れられた際に見せるどん底までの抜け殻のような姿、また『溺れるナイフ』では神と崇めらた自分の無力さに気付かされた後のなおざり感などが印象深い。

またその落差に圧倒される事も多い。
彼が入念に徹底して行う役作りには、毎度驚かされるしブレもない。

しかしここへ来て私は『糸』という作品に出会った。
『糸』は私が初めて映画館で4回も鑑賞した作品だ。私はこの作品で特に彼の革新を感じた。
これまでの個性豊かな役柄とは異なり、突出した個性を持たない主人公でありながら、各場面において確実に主人公"漣"の連なった人生を感じさせるという心情の変化を魅せられた。
言葉ではなく、表情の細やかな動き、息づかい、間、全ての要素を駆使してその人生を体現していたのだ。


彼は30代を目前にして確実に新たなステージへと邁進している。常に前へと向かっているのだろう。
この日々の躍進こそが、俳優"菅田将暉"が私達を飽きさせない理由なのではないか。

②奥の顔

2つ目の魅力は、"満たされない何かを追い求め続ける奥の顔"だ。

作品の中で彼は時に荒ぶり、色めき、またはとてつもなく無色透明になってその人の人生を生きる。
彼の、役に対するその注力たるや私たちが量ることは出来ないものであろうが、彼がそのハードな過程や困難な壁さえも楽しいと捉えている事は普段の様子からも想像に難くない。

しかし、時おり裏で垣間見せる空虚感、孤独感、寂寥感を含んだふとした表情に、私はまた心を奪われるのだ。
素顔の彼が"菅田将暉"という役者の殻を被り、更に演じる役柄を背負い、その人物が感じる想いを想像する。言わばマトリョーシカのように幾重にも殻を被りたち振る舞う日々。

その中で一番奥にいる彼は、常に自分自身が何者なのかを問いかけ、俳優としてのあるべき方向を模索し、孤独の中で戦っているように思えてならない。もちろんその目は常に未来を見据えているのだが。


その素顔を意識的に見せることは決してないが、時折その影がちらつく瞬間を感じる。その瞬間をも含め、私は作品を観る度に感慨に耽けるのだ。


彼自身は常々「純粋に役としての自分を観てほしい。その過程や裏側は見せるものでは無い」と言う。

勿論、作品としては彼の表の部分だけを見れば良いのだろうが、私はやはり前後、表裏までも含めた球体の中心として作品を見てしまうのだ。
だからこそ、スクリーンに笑顔で佇む彼を前に、彼の内面の想いやそこに至るまでの苦労までをも受け取って勝手に感涙にむせぶのである。またそれが私の楽しみ方でもある。

キネマの神様

最新作『キネマの神様』では、"山田洋次監督作品"そして"松竹100周年記念作品"という壮大な枠の中で、彼が純粋に忠実に演じている姿が印象的かつ新鮮であった。

主張しすぎずとも人格を際立たせるその演技は、12年という俳優人生を経て身についた術なのだろう。
とてもナチュラルでチャーミングな主人公に、私はこの度もすっかり魅了されてしまった。

これからも俳優"菅田将暉"が進化し続ける限り、私もその姿を追い求め続けるのであろうと確信している。

#菅田将暉作品を語る
#キネマの神様
#松竹

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