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仕事で「無理です」と言ってみそ

今日は海外にいる友人と久々に電話で話した。半年ほどずっと連絡とっていなくても、いきなり「明日話せる?」と連絡がきて、話そうとなるこの関係にいつも感謝している。よくわかんないんだけど、我々って同い年なのにいまだに敬語で話す。もう知り合って10年近くだけど最初が距離があったからか、このまま来てる、珍しいケース。

元同僚なので、職場の話や共通の上司・同僚のその後などについて話しつつ、大抵は仕事論の話になる。

友人は現地事務所の所長。それまではプレーヤーだったのが所長となったことで色々と悩みは変わりつつも、それなりにうまくやってるみたいだった。私もある意味で現地代表みたいなことをやっているため、共通する部分も多く、反対に彼女のやり方でなるほどなぁと思うこともあった。

彼女が話してて激しく同意したこと、明らかにキャパオーバーな仕事を割り振られそうになった時に「無理です」ということ。これっておそらく多くの日本人ができないことだと思うけど、ものすごい大事なことである。

自画自賛ですいませんが、彼女も私も仕事ができる方であるため、無理してでも業務をこなすタイプだった。お互いよく、燃え尽き症候群でダウンしたという話を当時はよくしていた。そして今回話してみて、業務をこなすことを目的としていた時代があったよね~と振り返った。しかし、業務をこなせるという評価があると、次から次へと仕事が降ってくるのが厄介なことで、増えた業務までも当たり前のようにこなしていた。彼女も私も。

しかし我々は今になって、「無理です」を覚えた。

無理ですって、何も考えずに即答するのではなくて、その後ろには論理的に検討したうえでの理由がある、または誰がどう考えても無理なことに対して言うのである。根拠のない自分よがりの無理、は言わない。

彼女が言っていてその通りだなと思ったのが、「自分の仕事量は自分が一番分かってる、だから無理かどうかの判断は自分がするべき」と。ほんとそう。明らかに無理するって分かってることを引き受けるのって責任ある行動かと言われたら、違いますよね。でも日本人て、馬鹿みたいに引き受ける。ていうか引き受けないと責められる。正当な理由があって断ろうとしても、断る行為を責められる。馬鹿ばっかりだとつくづく思う(こちらは私の感想)。

最近になって、仕事で「あ、こりゃ私一人じゃ無理だ」と思ったときに、結構早い段階で誰かに伝えるようになった。若い時にできていた無理ができなくなったのもあるけども、同時に自分が無理をすることに何の意味もないし、なんなら無理しても悪いことしか起こらないから。そんなシンプルなことを私は分かってなかったし、そもそも日本社会が謎の無言の圧力を平社員にかけてるのがアカンと思った。イケてない国、じゃぱん。

人との関係性も然り。無理だと思ったら、その相手に無理って言わなくてもスッと距離を置いて良い。行きたくない飲み会に行って良いことは一つもない。金がかかり、気分を害する。無駄の極み。苦手な同僚にわざわざ話しかけるとかも無駄。関係性を良好にするなら、話しかけないに限る。無理をしないってそういうこと。社会的に謎に美徳とされてることとかやっぱり無視したほうがいいなと思った。

彼女と話すと私よりもまともな考えを持ってると思いつつも、そのうまくやりくりする中に大きな大きなジャンボな諦めも感じる。仕事も職場の関係もビジネスライク、やるべきことをやれるだけの状況を保つ、それ以上は深入りしない。いいなぁと思う。その諦めを私も少しずつ、遅ればせながら学び、やっぱり楽になった。

「無理です」をどんどん使っていこうって話。しっかし寒い。