mRNAワクチンの接種推進について十分な議論がなされなかったことに関して思っていること

コロナのmRNAワクチンを巡る騒動はまだ続いているが、その過程で主張したい気持ちがたまってしまったので書きたい。

私は生物系の院卒で、研究室で技術員をやっていたことがある程度の(それも人によるけど)分子生物学系実験の知識と経験を持つ。以下はあくまで個人の感覚、しかも私はリスクを高めに見積もりがちな性質があるので、そういう人間の感覚であるし、自分の感覚を根拠にでかい主語で書いているのは自覚している。暇な専業主婦がこたつに当たりながらほざいている、その程度のことだ。

mRNAワクチンについては、医者も研究者も、賛成派、慎重派両方いたと思うが、賛成派の声が圧倒的に大きく、正常な議論の場が作られなかった。五十年後くらいにコロナのmRNAワクチンは結果的に利用するべきだったという結論になる可能性は否定しない。しかしまともな議論がされなかったという経過は非常にまずいものだ。これについて反省がされるべきだ。特に、研究者側の人間はついったー上の見た目よりももっと慎重派の割合は多かったのではないか、そういう人の発言がもっとあっても良かったのではないかと私は思った。

なぜ私は研究者にもっと慎重派がいたはずと考えるのか。そのためにまず私(学位すらないことくらい分かってるよ)の感覚を書いてみる。mRNAワクチンについてのはじめの印象は、「今人間に使うとしたらよほど致死率が高い病気か、恐ろしい病気に対してだろう」というものだった。原理的にmRNAワクチンの接種は、培養細胞に対して日常的にやるような実験操作(毎回終われば廃棄する)と大して変わらない(異論は認める)ので、大々的に使うには相当長くてきちんとした治験が必要、という感覚になる。長期的なリスクは「マジで何が起こるか分からない」という認識になる。最悪の場合で一番簡単に思いつくのが、導入した遺伝子が全身で大量発現して死ぬ可能性だ(大腸菌でそれに近いことが起こるとタンパクがギチギチに詰まった白い菌体がとれたりする)。ヒトの身体はまだ分かっていないことがたくさんあるので、思いもよらないことが起こる可能性は十分考えられる。私がお勉強していた短い間でも、昔ありえないとされていたことや無視されていたリスクが普通に現実になったみたいな事例(獲得形質が遺伝するとか公害とか薬害とか)をいくつも聞いた気がするので、むしろ思いつくような事象は探せば大体あるんじゃないかというくらいに考えている。これらの感覚と認識は今も変わらない。

さて、コロナはデルタ株までは確かに非常に恐ろしい病気だった。しかし、初めから性別や年齢や体型でそのリスクがかなり異なる病気でもあったし、その後の変異株では致死率も重症化率も下がった。「全身に長期的な影響がありうる、自己免疫疾患系の非常に厄介な病気」ではあるが、感染者の多くに対して「非常に恐ろしい病気」であるか、というと、今では疑問に思う人の方が多いと思う(今後感染回数が増えるほどやばい事態になるとかいう可能性は否定しないし、他の動物とかからいきなりやばい変異株が出現する可能性も否定しない)。

何が何でも感染するリスクや重症化するリスクを少しでも減らさなければならない、という病気では今のところなくなった。そうしたら、ワクチンや薬を使用する際には、病気そのものやワクチン・薬の持つリスクに対してワクチンや薬によってどれくらいの利益が得られるかということを考える必要がある。新型コロナとmRNAワクチンの場合はどうだったか。
期待できる利益:重症化率の低下
        死亡率の低下
        ×感染予防
        ?後遺症発症予防
        ?後遺症軽減 等
        (+未知のベネフィット)
リスク:ワクチンとしての通常の副反応
    LNP等生体内に無い物質の長期的な影響
    導入した遺伝子の恒常的な発現
    効果が短いので頻回接種が求められること
    等 
    +未知のリスク 

私は、mRNAワクチンのこれらのリスクについて、医者という属性の人の多く(ついったーで発言していた人の中では)が、過小に見積もっていたと感じている。なぜ医師はこれらのリスクを過小評価したのか、この理由は「人体で実際に観察され論文で報告されたことしか実在を認めない、演繹的な考え方をしない」という(一部の?)医者の傾向にあると私は考えている。実際にいる患者の治療をする際には当然それは堅実な考え方と言える。しかし、コロナに関しては未知のことを予想し、できるだけのリスクを回避したり、あらかじめ準備しようと考えなければならなかった。そんな時にもこの考え方を変えない医者が多くいたのではないか。

(一部の?)医者がなぜそのような思考をするようになったのか、実際のところはよくわからないが、私が少なくとも一因として感じているのが「分子生物学者、研究者、実験屋への蔑視感情」だ。気持ちはわからなくもない。試験管内で観察された現象が生体内では全く違うことになっていた、というようなことは普通であり、薬になる化合物の探索だって、莫大な金をかけて何万の中からやっと一つ見つけたものが、臨床では全然使い物にならない、というようなこともざらだ。実物の人間をひたすら扱い続けているという自負もあるだろう。しかし、(ほとんどの)医者は治療の専門家であって、分子生物学の専門家ではない。ましてや分子生物学者の上位互換などでは断じてない(理想的にはそうであって欲しいけど)。

先程挙げたようなリスクの多くは、分子生物学的な知識の背景があると無いとでは全く感じ方が異なる種類のものだと思う。分子生物学的な知識といっても漠然としすぎているのはそう。医者だってそれなりに勉強しているはずだし。しかし、生命の歴史から、ただ一つのタンパク質の物性から、ただ一つの生き物の生理から、夥しい時間と労力をかけて向き合ってきているその背景を軽視するべきではない。mRNAワクチンという新しい道具の持つ未知のリスクを考える際の背景知識としては、ヒトや病原体に限定されない「生命全体を横断する事象としての生命現象」や、遺伝子工学、タンパク工学などといった形で「ツールとしての生体分子」などを扱い続けてきた分子生物学者の方が、医者という属性の人よりも平均的には豊富というか深いと言えるのではないかと思う。少なくとも医者が思いつきやすいこととは違う範囲のことを思いつく可能性は高い。医者はリスクについてほとんど注目していなかった人が圧倒的に見えたので、違う範囲のことが見えていたなら研究者の感覚でリスクがより大きく見積もられた可能性は高かったのではないか。以上が医者よりも研究者の方が慎重派の割合が高かったのではないかと私が考える理由だ。一言で言えば、俺ですらそう思ってるんだから他にももうちょっと居んだろという気持ち。

やはりなまもの屋にはなまもの屋の「感覚」というものがあると私は思う。その感覚をもとにもっと声をあげなければならなかった(その感覚をもとに推進派になった人がたくさんいるのは否定しない)。しかし慎重派の中で声を上げた数は、実際にいた人数から期待されるよりすごく少なかったのだと思っている。それが仮に合っていたとして、なぜか。考えられる原因を四点挙げたい。

まず、前提としてmRNAワクチンに対して否定的な話をするとすごい勢いで叩かれるという環境が作られたこと。医者が徒党を組んでレッテル貼りや嘲笑、反対意見・慎重意見の封殺をしていた。少しでも否定的な意見は叩き潰すというような様子だった。子供じみた態度もよく見られて、非常に醜悪だった(スクショとかは取っていない。一般人の記憶に医者たちのやり取りがこのように記憶に残ったという一例だが、覚えている人は結構いるのではないか)。それに一般の人が便乗してさらに事態は悪化した。このため非公式な場でさえ正常な、なされるべき議論がほとんどできなかった。これは残りの三点の問題を促進する土台になった。

二つ目、「医療」の範囲だという認識があったために、「門外漢」である我々は口を出せない、という認識を研究者側、なまもの屋が持ったこと。分子生物学もめちゃめちゃ細分化しているので、隣の分野でも常識から全く分からないということが普通だ。ましてや実際の人間についての影響などわからないと考えるのは当然でもあった。しかしmRNAワクチンについては、実際には医者よりもよほど近い距離にいた人間が多くいたのではないかと思う。懸念をより持つことができるのも、それを伝えられるのも、「広義の生物学」を学んだ人間の方だったのに、自覚があまりなかった。

三つ目、医者に追随する意識があった者が多くいたこと。政府の広報作戦の成果でもあったと思う。そして実際の現場で戦う医師の発言は重い。心理的に、協力しなければと考えるのは人間として普通ではある。しかし、現場の医師の感覚はもっとも厳しい場所にいる人間の感覚であり、非常に強いバイアスがかかっていると言わざるを得ない。子供一人を死なせないために、大多数の罪もない健康な子供を未知のリスクにさらすことは正義なのか。生き物として、それはどうなのか。本当は議論が必要だった。

最後に、研究者の身分が圧倒的に不安定であることだ。政府が積極的にワクチン接種を勧める、ということは、否定的な意見を言えば政府の方針に反するということになってしまう。非常に腐敗が進んでいる日本の政府と教育機関周辺の構造の中で、いち研究者が自由に意見を述べられる環境など無いに等しい。それに比べれば医師は身分も給料も安定していると言えるので、かなり自由に発言ができたはずだ。この非対称性が議論の軽視にかなり大きな影響を与えたと思っている。

以上が、分生生物学者、研究者の中には慎重派がもっといたはずと思われるのに期待されるほど声が挙がらなかったと私が考えている理由だ。上のことを踏まえて、私がこの記事で言いたいのは以下になる。お気持ちだ。

医者は生物分野に関する自分の無知の可能性を認識して、分子生物学者の言う事にも耳を傾けるべきだ。一つのタンパク質の物性についてつぶさに観察した経験のある医者はどれだけいるのだろうか。そういった実験が無意味に感じるなら、それは思い上がりだ。試験管の中ではそれは現実に起こる。生体内では主要な機能が違ったとしても、その試験管内での振る舞いは低い確率でほぼ確実に起こってはいると私は考える。なぜなら可能性は低くても、分子の数、細胞の数が非常に大きいからだ。そして、細胞は殖える。たった一つの「異変」が起こった細胞が全身に影響を及ぼすことがよくあるのは医者だってガンとしてよく知っているはずだ。同じようなことがmRNAワクチンで起きる可能性をなぜ想定しないのかわからない。「確率が低い」で切り捨てられるということだろうか。低い確率を引き当て続けて生き残ったのが地球上にいる全生物なのではないか。医者も学者も、推進派も慎重派も、陰謀論者でさえ、全て不正解を言うことも、全て正解を言う事もなかなかできないはずだ。男女含む医師の女性蔑視感情はよく知られるが、女に限らず他人を蔑む医者仕草をもうちょっと何とかした方が良いと本当に思う。あそこまでカジュアルに他人を蔑んでおいてあまり自覚が無いぽいのはちょっと異常だと思う(全部の医者とは全然言わないけど)。言い訳をするな。頭の悪い相手でも人間として尊重するということは普通に可能であるし、それは対話というものの前提ではないのか。

生物学者は己の知識に責任を持つべきだ。たとえ他の分野より軽んじられていても、切れ者でなくても、ヒト以外の生物と関連する事柄について最も深い専門性を持っているのは結局生物学者という括りの人間になってしまうことは事実だろう。特に生物種の多さ、多様性の果てしなさからして、一人の生物学者がたまたま持っている知識や感覚のバリエーションも、誰一人同じとは言えないのではないか。そのため「一人」の意見のウエイトはむしろ他の分野よりも上がってしまうと思う。そういった事柄についてもっと自覚を持って、「一人」の意見をきちんと聞いて検証できるような環境を作るべきだ。特に現代社会では日常生活においても分子生物学分野の知見は重要度を増している。発言の機会を増やすべきだ。推進派の学者は発言しやすかったろうが、慎重派が発言しにくい環境を意図的に作っていなかったか。他の分野の学者も含めて、自分たちの知識を政府や国民に提供することを前提にしていていいはずだ。最終的な判断をするのは政治家だが、政治家が決定をするために必要な判断材料として、国民が小さな自己決定をするための判断材料として、お節介くらいの姿勢で知識やデータが提供できる体制で、本来はいるべきだ。各学会はそういうのをサポートするべきで、そのための事務員を何人も雇えるくらいの金があるべきだ。国が出せ。

政府は国民のために学者の身分と自由な発言と研究できる環境を保障するべきだ。専門性を軽視するのをいい加減やめろ。政府に都合のいいことしか言わない学者など学者ではない。それを肯定する国民もどうかしている。政府が誤った時、それを修正する可能性を自ら捨てに行っている。自殺行為以外の何物でもない。

なんかもう愚痴だな。以上です。だいぶ医者の悪口書いたけど、コロナ禍で大変だった医療関係者への感謝は当然あるし、私自身何かと病院と縁が切れない人生やってて普段からお世話になっていて感謝している。ただそれとこれとは別の話だというだけだ。


でもこれも学者というもの、医者というものにかなり期待しすぎている言説でもある。でも学者や医者にすらその在り方に期待できないというのは、どうなんだよ。あと勤務医の働き方って、なんで勤務医の上にいるのも医者で、医者はわりと権力があるっぽいのに改善されないの?経営者が悪いの?国が悪いの?研究者以上に分からん。勤務医と開業医ってどれくらい隔たりがあるんだろうな。勤務医、マジで忙しすぎて何もできないと聞いて気の毒だけど、他に振れる仕事ないんだろうか。薬剤師とか。あ、薬剤師のことも見下してるでしょ。院内薬局はお薬手帳の確認すらしない(とこしか私は知らない)けど、町の薬局の薬剤師は(町)医者にきけなかったことや聞き忘れたこととかきいてくれたり、医者が間違った処方を確認してくれたり、看病する側にとって必要な情報をくれたり、患者にとって頼りになる存在であることも多い(っていうか普通に医者からの情報だけじゃ足りないことが子供育ててると結構ある)。AIで代替できるとか言ってる奴は、今の社会で薬剤師がいなくなったらどれだけの混乱が起こるかわかってない。特に高齢者の服薬。実際どれだけ薬剤師に仕事振れる可能性があるのかは分かんないけど、医療の現場に薬剤師がいるとどうなるのかちょっと知りたい気がする。そういうところあるはずだよな。

(そうそう、医者って自分で他人の看病したことある人少ないんじゃないのか。多分医者が自分で自分の子供の看病する機会が増えたら、新しく明らかになることとか結構あるのではと思う。三十年前の専業主婦はタミフルとかインフルとか関係なく高熱で子供が異常行動することがあるの知ってたし。タミフルの騒動の時母が今さら何言ってんの、って言ってた)

は~。とりあえずずっと思っていたことをついに書いたぞ。公開してしまえばきっと次の考えにうつったり自分の考えを省みたりできると信じている。できるだけわかりやすく書きたいと思いながら一応推敲も少しはしたつもりだけど、言いたいことは要するにお気持ちなのでそんなに頑張る理由がないからもう投稿しちゃう。



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