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団地の猫のような

子どもの頃、団地で猫を飼っていた。

というより猫が先に団地に住んでいて、私たちは猫のテリトリーに後からやってきた存在だった。


だから家に知らない猫が勝手に入ってくるのは当たり前だったし、エサを食べ終わった猫が『もうこの家に用はない』と出て行っても『また来てね~』と特にとがめる事は無かった。

ごはんをあげたり、水を飲ませてあげたり、寒い夜には家で暖を取らせてあげたり。彼らが自分の力でできない事は手を貸すが、基本はお互いがお互いの人生を勝手に生きている。

私はこの距離感が結構好きだった。

最近は『猫を外に出すと交通事故に遭ったり、病気を貰ってきてしまうかもしれないから完全室内飼いが良い』とされている。

もちろん正論なのだが、果たしてそれは猫にとって幸せなのだろうかと考えてしまう。

私は仕事柄、不登校児や引きこもりの人を見る機会が多かった。たいてい彼ら(彼女ら)は親が過干渉で、『あなたのために』と明日の持ち物を用意してあげたり、『将来幸せになってほしいから』と子どもの進路を独断で決めたりする。

“転ばぬ先の杖”のごとく、子どもが躓かないようにと先回りして障害物を取り除くのだ。

だがそうすると子どもの自主性が無くなり、他者と関わる方法が分からない、どう生きればいいか分からない、と引きこもりになってしまう。

もちろんそれに致るまで複雑なプロセスがある。
が、端的にまとめるとそうだ。

自分で物を決められない、生き方が分からない人生ほど苦痛な物はない。千と千尋の神隠しに出てくる“坊”のように、心はずっと赤ちゃんのまま、身体だけが大きくなっていく。

それと同じように、『長生きして欲しいから』『幸せになってほしいから』と猫の行動を全て管理しようとするのもなんだか病的に思えてしまう。


自分で何も決められない、死ぬことすら許されないなんて。

私だったら死んでもいいから自分の足で世界を歩いてみたい。

土の上を歩くとフカフカして気持ちが良い事。
ブタナの葉は苦くて食べられない事。
近くの寺にはお供え物があって、たまに美味しい物が置いてある事。
お腹が空いてる時はそれを食べても、住職は見てみぬふりをしてくれる事。


いろんな事を経験して、自分が生きている世界がどんな場所なのかを知りたい。

野良猫は可哀想だと言われるが、彼らは彼らの人生を歩んでいて、彼らなりの幸せを見つけて生きている。

やりたいことをやって自由気ままに生きている姿はちょっと羨ましい。

私たちだって、飼い主だから、親だから、夫婦だからと、常に誰かの人生の世話をしなければいけない、なんて事はない。


団地に住む猫と団地に住む人間。一緒の場所で生きているけど、それぞれがそれぞれの人生を歩む。それでいて、たまに出くわしたら一緒に遊んだり、ごはんを分け合ったりして過ごす。

人との関わり方もそうでありたい。



▲寺の供え物を拝借するねこ