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社会主義核心価値観に「調布」を混ぜてもバレない説 - SF作家の地球旅行記 上海編(2)

前回のあらすじ:上海トランスラピッドには鉄道のMIRAIがあった)

ご存知のとおり、中国は世界最強のインターネット検閲国家である。万里の長城 Great Wall になぞらえて英語圏では Great Firewall と呼ばれている。

万里の長城は北方遊牧民の侵入を阻む壁として知られているが、実は中国人を北方に逃さないための壁という一面もあったらしい。防ぐべき蛮族であるはずの匈奴の王が「長城の警備を我々に任せてもらえないか」と漢王朝に申し出た、という笑えるエピソードが残っている。(興亡の世界史『スキタイと匈奴 遊牧の世界』8章)

我々は巨大な壁の一面しか見ていないが、どんな壁も常に二面性を持っているものなのだ――と気取った文章を書いてみたが、特にこの後の話とはつながらない。とにかく中国はネット検閲がすごい。

ところが、実は外国人旅行者にとって壁の突破は簡単である。プリペイドの香港SIMは中国本土からローミングしてくれるので、SIMロックフリーの携帯に挿すだけで普通に Twitter も使える。VPNとか使うよりもだいぶお手軽だ。渡航前に Amazon とかで買っておくといい。

いわば一国二制度を使った電波ロンダリングだが、現在香港自体がかなり危うい状況なのでこの先どうなるか分からない。

通信の問題は解決したので、次は金銭である。中国といえば「アリペイ」や「WeChat Pay」といったモバイル決済が普及しきっており、そのへんの屋台までモバイル決済なのだが、僕が行った時点では外国人には使えない仕様になっていた(これは頻繁に変わるので、これから行く人は最新情報をチェックされたし)。仕方ないのでATMで海外キャッシングした現金を使う。

店員がいる店で現金を拒否されることはなかったが、システム自体が決済手段と連動しているので現金が使えないサービスは結構見た。有名なレンタル自転車もそうだし、地下鉄の駅ではレンタル傘なんてのもあった。

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左下に「京東小白信用60及以上免押」と書いてあるが、これが噂の中国の信用スコアというやつだろうか。スコアが高いとレンタル用品を無料で借りられたりするらしい。

日本だと駅のコインロッカーが Suica 連動式になっていたりするが、電子マネーは決済に認証がセットになっているので、まだまだ色々面白いものが作れそうだ。「別に現金でも不便しない」というのはあくまで客側であって、社会のほうは色々不便するのである。

なお VISA や Mastercard はかなり高そうなレストランでも使えなかった。「キャッシュレス大国だから行けるっしょ」などとタカを括っているとひどい目に合うので注意。

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レストランで食べた麺類。飯がうまいことが人権だとすれば中国ほどの人権擁護国家はあるまい。ただし人権が飯だけでないことはキリストが看破したとおりである。

「人民広場」と書かれた公園をうろつくと、巨大なディスプレイに「当前入園累計数 3822人」「当前出園累計数 3803人」といったことが書かれている。差し引き19人が公園にいることになる。欧米と違って中国の監視社会は監視をアピールする傾向があると聞くが、こういうのもその一環なのだろうか。

散歩しているとそこかしこで見かけるのが「社会主義核心価値観」だ。漢字2文字の12個からなるスローガンである。こうもあちこちに貼られていると、なんだか公立中学校の学年目標みたいだ。中学生に自由や民主主義は関係ない気がするが、中国とも特に関係ない。

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雨が降ってきたので屋外の観光は控えて、上海博物館に向かう。入場無料なのでモバイル決済難民にはありがたい。そういえば大英博物館やスミソニアン博物館も無料だ。博物館を無料にすることが文化国家たる条件だ、と誰かが言っていた気がする。

英語の china が陶磁器を指すように、陶磁器は中国の象徴である。万里の長城はロッククライミングに長けた北方蛮族を撃退するためにツルツルの陶磁器でできている。当然この博物館も陶磁器の展示がたいへんなスペースを占めている。

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明代(16世紀)の景徳鎮にアラビア文字が描かれている。グローバル化だ。

世界史の教科書で見た甲骨文字や刀銭・蟻鼻銭なども展示されていたが、いちばん見たかった少数民族工芸館は内部調整のため閉鎖されていた。これが中国の少数民族弾圧か。許すまじ。

続いて、世界で2番目に高いビル・上海中心に向かう。高さ632mなので「東京スカイツリーのてっぺんまでフロアが詰まっている」と考えればその威容がイメージしやすい。その点トッポってすげえよな。

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右の微妙にねじれたビルが上海中心である。名古屋のスパイラルタワーに似ているが、左巻きなのでDNAでないことは確かだ。127階建ての119階が展望フロアになっていて入場料は180元=2800円。高え!(二重の意味)

エレベーターがあまりに静かなので驚いた。ドアが閉じてから「どのボタンを押せば動くんだ?」とパネルをじろじろ見ていたら高度を表すメーターが既に動いていた。119階まで53秒で到達する。上海トランスラピッドよりもこっちのがすげえ。

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展望室から見下ろせる栓抜きみたいなビルは上海環球金融中心(写真右、492m)である。なんかいい感じに穴が開いている。B級映画のクライマックスで操縦不能になった戦闘機がビルにぶつかりそうになって何とかあの穴を通して左側の川に落とすシーンとかありそう。

ちなみに現在世界一高いビルはドバイのブルジュ・ハリファ(828m)だが、現在サウジアラビアのジッダで1008mのビルを建設中とのことである。サウジアラビアと言えば「入るのが難しい国」として定評があるが、近年では石油依存経済からの脱却のために観光化を図っているという。巨大ビルを建てるのもその一環といったところか。

旧約聖書によるとバベルの塔に怒った神が人間の言語をバラバラにしたそうだが、人間は分断されると競いあってデカい塔を建てまくるものだ、というところまで思い至らなかったのは神の失策と言えよう。もう少し社会で揉まれるべきだったな。

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上海中心52階にはかなり大規模な書店がある。旅行先で必ず書店に寄る僕としては一応チェック。

実はこの旅行の少し前に僕のSF短編「宇宙ラーメン重油味」が中国の「科幻世界」に翻訳掲載されたので、せっかくだから実物を買ってみよう、と思って行ったのだが残念ながら見つからず。結構大規模な書店なのに、雑誌らしき棚が見当たらなかった。

印象的だったのは日本語の翻訳書が随分多いことだ。小説とかだけでなく、自然科学書でも日本人の著者名がかなり目立った。逆に欧米でよく見るような日本漫画の棚は見つからなかった。もしかしたら漫画や雑誌の類はもっと大衆向けの書店にあるのかもしれない。

地下鉄に乗るためにビルの底に向かうと、上海の近現代史がパネル展示されていた。世界ではじめて人工合成の「牛胰島素」を結晶化した、とある。

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カンのいい生物学徒は「牛」「島」の字でピンと来ると思うが、これは膵臓ランゲルハンス島から生成されるホルモン、つまりウシインスリンのことである。中国語版 Wikipedia には「この業績でノーベル賞が出ないのはおかしい、中国人ノーベル賞を出さないような政治的圧力がある」と揉めた、という雰囲気のことが書いてある。

インスリンは構造が比較的簡単かつ糖尿病の治療に使えるので古くからタンパク質化学の重要なターゲットなのだが、調べてみるとヒトインスリンの人工合成が1963年に Helmut Zahn により成功しているので、2年遅くて牛では難しいと思う。

中国人初の自然科学系ノーベル賞は(中国人を狭く定義すると)2015年に出たが、これは文革期の業績によるものである。研究業績とノーベル賞は往々にして10年以上のタイムラグがあるが、これから中国はぽんぽんノーベル賞(に値する研究)が出るだろうと思う。世界最速の鉄道やエレベーターはそんなでもないが、月の裏側に探査機を送れるのは正直うらやましい。

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米帝資本主義の象徴マクドナルドも、きちんとこの国には輸出されている。入ってみるとタッチパネル式の注文機があり、会話難民にはありがたい。と思っていたら支払手段が「モバイル決済」と「ギフトカード」しかない。店員さんを呼ぶと機械をポチポチ操作して変なレシートを出して、レジで現金を受け付けてくれた。

値段に小数点が含まれていたらしく「5角」の硬貨をもらった。中国の人民元には角(10角=1元)という補助通貨があるのだが、実物を見るのはこれが初めてな気がする。

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マクドだけでなくKFCもよく見る(中国ではマクドよりメジャーとも聞く)。「加油追夢人」と書いてあるが、この場合の「加油」は「がんばれ」よりも物理的な意味に見える。

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帰りの空港にて。上海から台北行きの直行便はびゅんびゅん飛んでいるのだが、中国の建前上は台湾は「国内」なので、香港やマカオと並べて「港澳台」となっているようだ。帰りもまたJAL便だったが、「賛否両論」は出なかった。


帰国してからこの旅行記を書くまでしばらく空いたが、その間にNBAのゼネラルマネージャが香港デモを支持する発言をして中国企業から提携を解消され謝罪に追い込まれ、その状況を風刺したアニメ「サウスパーク」が中国で放送禁止になり、サウスパークのツイートを「いいね」した人が中国入国禁止になる、と何だかすさまじい事になっている。

アメリカが中国市場を意識してコンテンツの「自己検閲」を行っていることは以前から問題視されていたが、小説の中国語訳が出た自分も無縁とは言い難い。なお僕は以前「たのしい超監視社会」という短編をSFマガジンに寄稿したけどこれはどう見ても中国で出せない。

「宇宙ラーメン重油味」「たのしい超監視社会」はともにSFマガジンに寄稿したが、これを同じ短編集に収録すると中国語訳が出せなくなってしまうのではないか、この時代に中国市場を無視してやっていけるのか、などと心配している。自分の中で自己検閲エンジンが発動しているのが体感できる。社会主義国家は核ミサイルで西側を脅すものだと小学校で教わったのに、まさか経済力で脅される日が来るとは思わなんだ。

ただ、どのような国のどのような体制であっても、とりあえず相手のことを理解するという姿勢は持っておきたいと思う。僕の場合それは、とりあえず行ってみることだ。

できれば次行く時までに外国人向けモバイル決済を整備してほしい。それまでに入国禁止になっていなければなお良い。



有料部分は上海の地下鉄の話です。


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