チップがないならポテトを食べればいいじゃない - SF作家の地球旅行記 カナダ編(1)

【本編の登場人物】

■柞刈湯葉:この文章を書いている大豆加工食品。研究職をやめて専業作家になったが、最近原稿が書けないので実質無職。

■上野君:筆者の研究室にいた学生。博士課程なのに妙に人当たりがいいので「君は研究者の息子だろう。社会性があるのに博士課程に行く理由はそれしかない」と聞いたらそのとおりだった。現在カナダ留学中。

■ドナルド・トランプ:アメリカ合衆国45代大統領。自分の領土にホテルを立てて通過する人間から通行料をせしめるリアルモノポリーおじさん。

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「モントリオールには季節が2つあるんですよ。雪の季節と、道路工事の季節です」

コンクリート舗装の歩道を歩きながら上野君は言った。朝食に向かう道中のことだった。なるほど今は雪の季節ではない、つまり工事の季節だ。さっきから道路を遮断する鉄柵がやたら目につく。観光名所であろう教会の前でも、アスファルトが容赦なく掘り返されて交通とインスタ映えを妨げている。

道行く人達はみんな半袖だ。寒冷地のイメージが強いカナダだが6月のモントリオールは暑く、30度を超える日もあるという。もちろん摂氏温度だ。ヤード・ポンド法という人類の負の遺産は五大湖によって遮断され、このメイプルの国には及んでいない。

「それも、古い道路を修復するんでなくて、新しい道路を掘り返してるんです。何やってるんでしょうね」

きっとケインズ経済学者だろう、と僕はぼんやりと思う。

新古典派の経済学者が合衆国政府を乗っ取り、迫害を恐れたケインジアンたちが、五大湖をゴムボートで渡ってカナダに亡命してきたのだ。彼らはこの北の大地で穴を掘って埋める公共事業を続けながら、いつの日か合衆国に凱旋帰還する日を夢見ているのだ。ゴムボートである必要はない気がするが今考えた作り話なので何でもいい。

朝7時半から営業しているカフェで「classic」というメニューを注文すると、味噌汁の椀と見紛う巨大なカップにコーヒーを注がれる。スクランブルエッグにフライドポテト、生野菜のサラダにフルーツ、そして全粒粉のパン。朝食のイデアというべき布陣だ。カード決済の機械を適当に操作したら謎のチップが発生し15カナダドル(1200円)になってしまった。

「決済のときに○○のボタンを押せば、チップを払わずにすみますよ」

上野くんは説明する。話によると、先払いの店はチップを払わなくていいらしい。そもそもチップは任意なのだから論理的にはどんな状況でも「払わなくていい」はずなのだが、そのへんは日本人もびっくりの本音・建前の文化があるのだろう。

カナダ滞在数ヶ月の上野君は、ある料理店で「チップが足りない」と店員に突っかかられたことがあるそうだ。「15%払え。そうでないと俺たちは生活ができない」と。そういう店に限って料理はうまくない、とのことだ。

冷静に考えると、従業員の生活が任意のチップ頼みになるような賃金体系が間違っている。日本で言えば「残業代なんて払ってたら会社が成り立たない」というやつだ。しかし長く染み付いた文化を論理で正すのは容易なことではない。

そんなことを思いながら黙々と15ドルの朝飯を食べる。量がとにかく多い。日本人の中でも少食の部類に属する僕は、欧米飯の一人分は量的にも価格的にも過剰だ。

「で、これからどうするんですか」

上野君が尋ねる。僕はその前日深夜にモントリオールについたばかりで、上野君のアパートで寝て起きて朝飯を食べて現在である。

「原稿を書く」

「原稿を書きにカナダに来たんですか?」

「そうだよ。原稿書くならカナダだろう」

と言うと上野君は「なに言ってんだろこの人は」という顔をする。僕自身「なに言ってんだろ僕は」と思ってるので的確である。

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研究室の後輩である上野君に「カナダいるんですけど部屋が広すぎるので遊びに来ませんか」と誘われたのは、2019年の春のことだった。

そのころ僕は、研究職の任期が切れて専業作家になってみたものの「小説に専念する」という体制には全くならず、それどころか兼業時代以上に原稿が書けなくなってしまい、実質的な無職状態になっていた。

デビュー作が売れているのですぐに生活が困窮するわけではないが、「小説が書けない小説家」に未来がないことは誰の目にも明らかだった。こういう困窮状態で僕が考えることは「とりあえず遠くに行こう」である。問題が起きている場所から物理的に距離をおけば、なんとなく解決したような気分になる。そして、世の中のたいていの問題は気分の問題である。

そこにカナダである。うってつけだ。何がどううってつけなのか僕もよく分からないが「なんか身体的にピンと来る」とでも言えばいいだろうか。旅行の理由としてはそれが一番ふさわしい。「燃油サーチャージが安いから」とかいうのはあまりよくない。行かないほうが安いからだ。

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宿泊先がすでに確保されているので、必要なのは渡航申請と航空券だけである。渡航の数日前までにWeb上で eTA というものを申請するだけで、半年まで滞在できる。

eTA の手数料は7カナダドル(500円)。あの広大な領土にワンコインで入れるとは凄まじいコスパである。ディズニーランドは7400円なので面積あたりで考えると3億倍高い。夢の国とはよく言ったものだ。

続いて航空券を取る。SkyScanner で適当に安いのを探すと、トランプ合衆国の敷地をまたぐコースになった。この場合、合衆国の渡航申請(ESTA)も出さねばならない。やることは eTA と大体一緒なのだが、手数料が14米ドル(1500円)もかかる。通過するだけなのにカナダの3倍である。モノポリーでホテル建ってるコマを踏んでしまった気分だ。

あとは荷造りだ。今回はアウトドア活動をするわけでもなく、行き先はカナダ第2の都市なので、クレジットカードと携帯さえあれば基本的になんとかなるはずだ。懸念と言えば携帯が HUAWEI 製であることだが(この旅行中は HUAWEI 排斥論が一番盛り上がっていた時期である)、なにかあったら話のネタになるので問題ない。作家業をやっていると「話のネタ」は文字通り換金できるので、トラブルに対して鷹揚になれる気がする。

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空港チェックインのシステムは年々進歩しており、チケットは印刷する必要すら無く、空港に置いてあるファミポートみたいな機械にパスポートをスキャンさせると、それだけで自分の乗る飛行機の搭乗券が発行される。あとはそれを持って荷物を預けるだけだ。「9日間の滞在でこの荷物?」と空港の職員に変な顔をされた。

荷物検査を経て出国ゲートに向かうが、こちらも人間の職員にスタンプを押されることはなく、パスポートをスキャンして顔写真を撮るだけで通れてしまう。パスポートすごい。まさに現代社会のパスポートだ。

ゲートをくぐるとそこは法律的には日本ではない。ここで殺人事件が起きたらどこの法律で裁かれるんだろう、と免税店ウォッチングをしていると、Nintendo Switch が29,970円で売っている。市場価格よりだいぶ安いので衝動買いしそうになったけど、それをやるとカナダ旅行がゼルダ旅行になってしまうので自重。

(余談であるが、この旅行中に Nintendo Switch Lite 19,980円が発表された)

エアバスA330がラスボスの吐息みたいなエンジン音を立てて飛び立つと、まだ日本の領空を出ないうちから非常に寒い。長袖の服はすべて預け荷物に入れてしまった。慌ててシートのブランケットを被る。飛行機というのはどういうわけか異様に暑いときと異様に寒いときがある。

トランジットで訪れた合衆国の空港で上着を探しに歩き回り、30ドルのやっすいジャケットを購入する。店員のブロンドおばちゃんに「Chinese? Japanese?」と聞かれて「Japanese」と答えると「ガンバッテクダサーイ」と日本語で言われる。特に頑張る要素はないのだが「はーい」と答えて紙幣を出すと、20ドル札のあまりのボロさに受け取り拒否され、仕方なくクレジットカードで支払う。合衆国造幣局はもうちょっと頑張ってください。

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出発時間になってもなかなか搭乗案内がはじまらず不思議に思っていると、ゲート番号と座席番号を勘違いして、まったく違うゲートで待っていたことが判明(よりによって航空会社が同じだった)。慌てて空港をダッシュすると、30ドルの上着はまったく通気性がないので汗が蒸れて暑い。防水防風はよさそうなので帰国したらバイク用の上着にしよう。

2時間ほどのフライトを経てカナダ・モントリオールに到着。こちらの税関も機械化されており、タッチパネルで質問(日本語対応)にぽちぽち答えていくと自動的に税関申告書が作成されるので外国人に優しい。日本はまだ手書きなので頑張ってほしい。

「肉類を持っていないか」「大量の現金は」「第三者から預かった荷物は」といったお決まりの問答で「いいえ」を連打していくと、途中で「大麻を持っているか」というのが出てきてギョッとする。そういえばカナダは去年大麻が合法化されたのだ。ここで選択肢に出てくるのは「所定の手続きをすれば持ち込めますよ」ということなのだろう。

税関を出ると、ATMに行ってVISAキャッシングで現地通貨を入手する。話によるとこれが一番レートが良いらしい。合衆国のゴミみたいな紙幣と違って、こちらはピッカピカのポリマー紙幣だ。20ドルの肖像は英国女王として知られるエリザベス2世。女王陛下万歳!

さて、ここでちょっとカナダという国家について説明が必要だろう。皆さんはカナダについてどういうイメージを持っているだろうか。「アメリカの北にある国」という東京に対する埼玉みたいな認識をしている人が多いと思う。「北米」としてひとくくりにされることも多い。

実際どちらもイギリスの植民地から独立した国なのだが、その独立の経緯がだいぶ違う。

アメリカ合衆国は、大英帝国と喧嘩して紅茶を海にぶちまけることで成立した共和制国家である。このため独立記念日がたいへん重要で、この日は老いも若きも男も女も白人も黒人もみんな星条旗を掲げて「USA! USA!」と叫ばないとCIAが来て逮捕される。

一方、カナダも英国から独立した主権国家ではあるのだが、現在もエリザベス2世を君主として戴くコモンウェルスの一員である。いってみれば、親とケンカ別れした姉と、円満に親元を巣立った妹が、隣同士に住んでるようなものだ。

さらに事情をややこしくするのが、今回滞在するモントリオール(ケベック州)はもとはフランスの植民地だったということだ。これが七年戦争によって英国の統治下におかれ、ケベック法で一定の自治を保証されたあと、一緒になってカナダという独立国家になった。

こうなると、モントリオールの住民がカナダという国家に複雑な感情を持っているのは想像に難くない。「自分はカナダ人ではない、ケベック人だ」というアイデンティティを持っている住民も多い(上野君・談)。

実際、空港からダウンタウンに向かうバスひとつ見ても、案内表記はフランス語しかない。カナダは州ごとに公用語が異なり、ケベック州の公用語に英語は含まれないのである。バスチケットやレストランのメニューもフランス語のみだ。日本のフランス語学科の学生も、よく留学先としてモントリオールを選ぶらしい(フランスよりも滞在費が安いとか)。

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ただし住民のほとんどは英語が喋れるので、生活面で不便することはあまりない。店に入ると店員が「ボンジュール・ハイ」という独特な挨拶をする。「ボンジュール」と答えるとフランス語で会話がはじまり、「ハイ」だと英語になるらしい。うっかりボンジュールと答えないように気をつけねばならない。

【つづく】

文章で生計を立てる身ですのでサポートをいただけるとたいへん嬉しいです。メッセージが思いつかない方は好きな食べ物を書いてください。