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真の深刻劇場はここでした、親子の絆って。未だ自問自答してます。 1

わたしはわが子をうまく育てられない保育士でした。

※アメブロで2014年に書いた「自分史」を加筆・再考し掲載しています。


これを最初に書いたのは2015年の春でした。
当時の文のまま↓

ゆうあ@4月の過ごし方♪です
私のおうちの前ね、保育所なんですよ。

なのでね
4月は泣き声いっぱいなんです☆
小さいからだで振り絞って泣くのよね。
それだけお母さんが大好きってことやんなあ。

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↑なんかこれ、わかるね・・・・笑っちゃった

おかあさんもそれぞれの場所でがんばり
子どもたちもがんばる。

うまい循環の中で親子関係ってつくっていくものなのだろうなあ。

確かに

小さいころは一緒にいるの、よいと思うけど
今のご時勢、一緒に「いたくても」いられない状況だってたくさんたくさんあるものね。

~抜粋ここまで~

とてもよく書けています(おいおい・笑)

2019年3月に閉園するまで、
家の二階の窓からこの
早朝から子どもたちは保育所で、
お母さんは駅まで猛ダッシュの光景を見てきました。

わたしもたぶん
あのころは「がんばってた」んだろうなあって思いながら。

「自分史で振り返る」って
わたしにとってはね。
私にとって昔の「あんな、こんな、どんな」私のことも
ちゃんと認めていく作業なんだろうなあ。

そんなふうに今、思っています。


さて
わが子のこと。

正直このテーマが一番苦手です。
はじめて書くときも、実はずっとずっと後回しになっていきました。

近年「卒母」という言葉が生まれましたが
そもそもそれにも、年齢とか学費払ってるのが終わったからとか
みんなそれぞれに概念違うと思うし

それに、なんだろう、
子育てっていうのも
人を世に生み出した責任とした

その人が死ぬ間際にどう感じるかのほうが大事なん?って思うし

でも、それが「子育て」の成功とか失敗とかに関わってくるとかになったら

知らんわ、だってわたしの人生じゃないもん。ってなるし。


そんな思いでいると、「子育ての終焉」はおろか、
「成功」とか「失敗」とかなにで判断するの?って思っちゃいます。

わたしには
平成6年2月生まれの長男と
平成12年2月生まれの次男がいます。
今現在は次男と二人で暮らしています。


今日は長男のことを書きますね。

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1996年2月8日。
予定日よりも2週間早く生まれたけど3320グラムあった
大きな男の子。

長男は小さいころからなんでもはやーくできちゃう子でした。

なにせ5カ月にはズリズリ這い出して
6ヶ月からベビーベッドの柵もって立ってて

なんと10ヶ月になった日から歩きました。(笑)

なににしてもおませなんですよね。

当時バイブルだった月刊の赤ちゃん雑誌「ひよこクラブ」の同じ月に生まれた赤ちゃんが
幼く見えるという。

私のそのころの思考の中の
「はやくできるに越したことはない」
(自分がグズと言われてたので母に言われたくなかった。)
という思いを多いに満足させる息子でした。

長男が一歳を過ぎたころ
私は職場復帰して、保育所に預けながらの生活が始まるのですが
何をしても、ユニークで、おもしろくて、人気者。
私は長男が自慢でした。

6歳違いの次男が生まれたころ、長男は小学生になりました。


おにいちゃんになった長男は弟ができて
彼なりにやらなきゃーって思ったのだと思います。
家のことも、弟の面倒も、いろいろやってくれる子でした。助かってたなあ。

でもね
「できてしまう」ことがいつしか「あたりまえ」ととらえていた私は
長男のことを褒めることをしなくなっていました。

さらに仕事しごとでいらいらする私をみて
常にビクビクしながら、先回りしていろんなことを手伝ってくれていました。

そのころ
長男に思っていたのは常に
「この子は放っておいても大丈夫」

一度、参観日を覗いてビックリしたことがあります。
みんなが半袖Tシャツを着始めるころ、

長男だけがフリースを着ていたこと。

「本人が寒いというので」って担任に言われましたが。

私が与えてなかったんです。
ネグレストですよね?

それくらい、ひどい状況なのに、
本人は私に「Tシャツ出してほしい」さえ
言えなかったようです。

怖かったんやろうな…。

親が参加するリクリェーションとか、野球チームの応援にも「仕事が休めない」は仕方ない部分があるとしても

休みで、行ける日も
「疲れてるから」とか「面倒だ」とか思って
スルーしていたり、連絡もしなかったり。


とにかくそんな思いでいても、
長男は「だいじょうぶ」だと私は思っていました。

そんな小学校時代を経て

中学一年生の終わりごろから
彼の友人関係が「変わってきたこと」
に私はもちろん全く気付いていませんでした。

いつしか部活にもいかなくなり

二年になったころにはタバコをすっていたことで学校に呼び出されますが、
そのときでさえ私は
「長男は一緒にいただけで吸っていない」と思っていたのです。

でもそれは「信じていた」というよりは
「わずらわしいので見ないふりをしていた」
という感じ。

学校に謝りにいったときも

「ただでさえ忙しいわたしの手を煩わせないで」という趣旨のことを長男に言ったと思います。

ひどいよね。

それからしばらくして

私の「私の思い通りにしなさい」的抑圧に
長男は猛反発します。

いわゆる反抗期。

二年生の最初のうちに

タバコや万引きで補導されたときは
「お父さんに言わんといて」と言う長男に
黙っていましたが

度重なることに我慢できず、私が主人に言いつけたことから
完全に家の中は荒れていきました。

家族で話し合っていこうというスタンスにするとしては
我が家の両親(主人と私の関係)は破綻しているし、

私も主人に相談したのではなく「投げた」的思いで
「もうあんたが(力で)なんとかしてよ」だったです。

今思えば、長男としては逃げ道どころか
希望もなにもなかっただろうなあ。

そうして。

長男は私に対して暴力をふるう、
家のものを破壊する、お金を盗む、
家には帰ってこない。

実はこのころ主人が家にさらによりつかなくなっていたのですが
そのことを忘れるくらい
家の中は大変なことになっていきました。

長男の学校からは私が仕事が終わるであろう5時半に必ず職場にお呼び出し電話がかかってきてました。

そこから学校に出向き、校長室や生徒指導室で今日したことを聞いて一緒に謝って

でも長男にをれを聞く間もなくしごとに戻らないといけないことも当時は多々あって
夜、仕事から戻ったら長男いない。

どこ行ったの?反省文どうすんの?
今から探すのーーー?(ノд-。)

とかね。

そんな中でも
長男は私の希望した公立高校に合格し、入学します。
しかもすべりどめの私立は特待生での入学許可もでてたんですよね。

たぶん(いや絶対)やればできる子。
でも、やっぱり。
あまり褒めなかったなあ・・・・。

高校入学してからもさらに
毎月毎月呼び出されるのにうんざりしてました。

一時は硬式野球部に入ってレギュラーにもなって
公式戦にも出たんだけど
親としてホッと安心したのは一年生の秋の一瞬で
タバコやら万引きやら遅刻やら

あとはなしくずしに
提出物ださず、再テストも受けずで留年。

二度目の一年生も

五月になったとたんトイレタバコのあと、
停学中にクラスメイトとカラオケしている
写メをブログにあげられて

これが発端で無期停学になり、
そこからの昼夜逆転生活。

夏に補講にいったときは青白い顔になって
一時間もたない体力になっていると
先生を通して家に帰ってきました。

今となっては

あのころの長男はきっとかなり追い詰められてたのだと思う。
今だから不登校サポートの友人関係も増えたし
いろんな考え方ができるようになったのだけど

当時は

なぜいかないの?
なぜ学校にいったら悪いことばかりするの?
なぜ、人に迷惑ばかりかけるの?

ばかり思って本当にイライラカリカリしてました。

要するに

「私の思い通りではない長男」
は本当に私の中では「必要なかった」んです。

私の思い通りになんでならないの?
わたしの思考の根元はいつもいつもこれでした。

どんどん仕事にも支障がでるようになり
自分の中でも
「なにしてもうまくいかない」
そんな毎日でした。

それでも

学校には行かない。
行っても帰ってくる。
行ったらタバコで現行犯から停学。

そんな長男をそれでもとにかく
高校に必死で送りだす毎日。

そしてこの状態のまま

私が仕事にいけなくなった旦那が亡くなる半年前を迎えたわけなんです。


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