自分のセクシュアリティを見直してみる

自分のセクシュアリティを見直してみる。

ところで、
・セクシュアリティ
・セクシャリティ
と表記揺れがあるが今回はセクシュアリティで統一する。

セクシュアリティとは

 そもそもセクシュアリティとはなにか、簡単に説明すると広義的には性に関わることの総称で、一般的には身体の性、心の性(性自認)、好きになる相手の性(性指向)など様々な性を組み合わせたもので表現される。

 例えば、身体の性は女性、心の性は男性、好きになる相手は男性、みたいな。この場合、FtMトランスジェンダーのゲイである。
 トランスジェンダーというのは身体と心の性が一致しない人を指す。よく耳にするであろう”LGBT”のTだ。FtMはFemale to Male、MtFはMale to Femaleの略でそれぞれ、身体は女性で心は男性、身体は男性で心は女性の人である。性同一性障害と混同されがちであるが、性同一性障害が積極的に身体の性と心の性を一致させたいのに対し、トランスジェンダーは必ずしもそうではない。一方で身体の性と心の性が一致する人をシスジェンダーと呼ぶ。
 ”LGBT”でいうLがレズビアンであり女性の同性愛者、Gがゲイであり男性の同性愛者、Bがバイセクシュアルであり両性愛者だ。異性愛者のことは一般的にヘテロセクシャルと呼ぶ。

 おそらく、同性愛者か異性愛者かを決定づけるのは自分の心の性と、相手の性(相手の性に関してはその人が何を重要視しているかによって変わるだろう)が同性であるか異性であるかだろう。
 もっとも、好きになる相手を特定の性で判断する必要はなく、すべてのセクシュアリティの人を好きになる全性愛者(パンセクシュアル)、人を好きにならない無性愛者(アセクシュアル)など様々な形がある。私は別に性でカテゴライズする必要はないと思うけど。男女かかわらず、二重な人が好き、とかいると思うし。

自分のセクシュアリティ

 本題に入る。

 生まれてから十数年、ずっとシスジェンダーの異性愛者だと思ってきた。心の性、というものを特に意識せず、身体の、戸籍上の性に従い生きてきた。男性は女性を、女性は男性を好きになるものであるという常識ともいえることを疑わず、男性を恋愛対象として考える頭がなかった。

 何故かジェンダー論に興味を抱いてしまい、知識が増えていくうちに今まで無意識に決定されていた自分のセクシュアリティを捉え直す必要があると考えはじめた。心の性は女性であった可能性はないか、男性も好きになる可能性はないか。恋愛感情を抱くことはないのではないか。色々と考えてしまった。多分今身体も心も男性で、異性愛者なんだろうけど後天的に獲得されたであろうセクシュアリティを自分のセクシュアリティとして明言していいのか・・・?とか考えた時点で迷宮入りしていた。
 だが、本当に捉え直されるべきは私のセクシュアリティではなくセクシュアリティそのものではないだろうか。

セクシュアリティを考え直す

 セクシュアリティなんてものはないのではないか、というのが今の考えだ。
 身体の性は存在する。性分化疾患のことを考えれば必ず男女のどちらかに定まるものではないが、性分化疾患を仮に第3の性と考えれば男女第3の性のいずれかには当てはまってしまう。
 ただ、心の性や恋愛対象の性に関しては定められたものに当てはまる必要も、そもそも性というカテゴリである必要もないと考える。
 性別はよくグラデーションに例えられるが、両極端が決まっており、その段階的変化の中で自分の立ち位置を定めるという考え方はおそらく惜しい。グラデーションで表現するからには必ず一番濃いところと一番薄いところが存在し、限りなく無限に広がるとしても最果てはどこかに存在する。今、性と呼ばれているなにかは有限の枠組みで考えていいものなのか。
 心の性を考えるときには世にはびこる性のステレオタイプが関わってくる。昔から女の子とよく遊んでいて女の子の服を着たがっていたと身体の性が男性である人が話すのを聞いたことがある。それを理由に自分の心の性が女性ではないかと疑念を抱いたらしいが、「昔から女の子とよく遊んでいて女の子の服を着たがっていた」ことが女性特有のことだと決めつけているのは社会や文化である。赤やピンク、おままごと、ケーキ屋さん、看護師、スカート、化粧、長い髪など女性に結び付けられたものは様々あり、男性も同様である。こういったものを女性性、男性性と呼ぶが社会や文化によって規定された女性性、男性性が女性、あるいは男性に特有のものである必要も性別に囚われる必要もまったくない。男性が化粧をしてもいいし長い髪であってもいいなんてことは今の時代珍しくもない言説であると思うが、もはやそんな次元でもない。
 あらゆる言動、思想、信条は身体や見た目や年齢や声や性格や学歴や家柄に左右されてはならない、といいたい。社会的、文化的に規定されてしまった、無意識に浸透してしまった性のステレオタイプから解放されたとき、同時に性そのものから解放されるような気がする。心の性の決定は相対的であったし、恋愛対象は性別で区分され続けてきた。
 何度も言うが、それが性である必要はまったくないのだ。身体の性が存在することは仕方がない。だが、もしもランドセルは赤がよくて、女性の服装に憧れていたとしても、それは一人のそういった嗜好を持つ人間であり心の性がどうだという話にしてはならない。
 無性愛者などという区分をする必要はない。大体、恋愛感情を抱くことを前提にした社会や区分がおかしい。恋愛対象を性別で分けるのであれば人間を相手にする事柄全てに対して性別を絡ませるのが筋だろう。何故、嫌いになる人の性を大々的に取り上げ、自分の性との比較でカテゴライズしないのか。それに意味がないからである。さて、恋愛対象を性で判断すること、「恋愛対象を抱く相手」を決めなければいけないような雰囲気は意味のあるものなのだろうか。

ここまで書いたところで以前にも似たような文章を書いた気がしてきた。

ここから2記事ほど遡れるので興味があったら読んでみてください。驚くほど同じようなことが書いてありました。

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