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激人探訪 Vol.21 延命寺 a.k.a emj ~役目を与えられる本物の唯一無二~

どうも皆さん、YU-TOです。

前回から復活した激人探訪、また沢山の方に読んで頂けたようで嬉しい限りだ。

音楽にも同じことが言えるが、一度”これ”というイメージが付き過ぎてしまうと、それを脱却していく事が難しくなる。

“激人探訪=ミュージシャンを扱う記事”という方程式を一度前回で崩した訳だが、音楽とは違う職種の人の話でも、音楽と共通する物の見方は数多くあったように感じて個人的には面白かったし、勉強にもなった。

付いたイメージに沿った事をやり続けた方が、"ブランディング"という面においては良いと思うのだが、それだと書いている自分自身の価値観が広がっていかずに飽きてしまい、それはそのまま読者の"飽き"にも繋がってしまうかもしれない。

だから、このような"良い意味での裏切り”は今後もどんどんしていきたいと考えていて、ジャンルや職種に囚われず、自由な観点からゲストを選んでいきたいと考えているので、これからの展開も楽しみにしていて欲しい。

さて、今回のVol.21も、今までとは一味も二味も違うニュータイプのゲストをお招きしている。

今回のゲストの特徴は、”自分と同じ職種にはいるが、ある意味では全く違う”というところだ。

というより、恐らく日本中、いや世界中を探したところで今回のゲストと”同じ職種”と言い切れる人物は存在しないだろう。

そんな個性溢れる今回のゲストは、延命寺a.k.a emj氏だ(※記事中では"延命寺氏"と表記させて頂きます)。

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もしかしたら、彼の名前を聞くのは初めてという方も多いかもしれない。

延命寺氏はメタルシーンに属したミュージシャンではないため、これまでの激人探訪で取り上げてきたゲスト達とは若干毛色が異なるタイプのミュージシャンだとは思う。

だがしかし、面識こそなかったものの、自分は元々彼の名前を知っていた。

今回、延命寺氏を取材する事になったのは、Large House Satisfaction,ENTHRALLSなどのバンドで活動するドラマーのSHOZOという人物からの紹介がきっかけだった。

自分とそのSHOZOは専門学校時代の同級生で、今でも定期的に連絡を取り合っているのだが、そんな中で「ちょっとYU-TOに紹介したい人がいるんだけど、、」という話を突然持ちかけられ、「何のこっちゃ?」と思っていたら、「延命寺さんっていう、自分でシンバルを作ってしまうドラマーがいる」と。

「ああ!、知ってる!」とすぐにピンときた。

普段からSNSなどで様々な情報を受動的に仕入れていると、記憶の書き換えが過剰に行われてしまうのだが、延命寺氏の存在は自分の中にしっかりと記憶されていて、「すげぇ人がいるもんだな、、」と彼の存在を知った時に思ったことも同時に覚えている。

延命寺氏は大阪在住。

ベース&ドラムのみの編成で活動する異色ユニットgrunbandをはじめ、様々なバンドやシンガーのサポートを掛け持ち、関西音楽シーンに無くてはならない凄腕ドラマーとして活躍中。

手数を繰り出しつつも楽曲を的確に盛り立てるセンス抜群なフレージングを有する延命寺氏のドラミングは観るものを惹きつけ、他のドラマーを圧倒させる個性を放っているが、彼の活動は単なるドラマーの枠を遥かに越えている。

前述の通り、延命寺氏は”ドラマー”であるだけではなく、”シンバルメーカー”でもあるのだ。

自身で素材を仕入れ、ハンマリング加工やレイジングといった専門的作業も全て1人でこなし、大手メーカー顔負けのクオリティを誇るシンバルを一個人で作り上げてしまう。

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延命寺氏が作り上げたそのシンバルは”emjmod”の名の元に大手楽器店でも販売され、柏倉隆史氏(toe,The HIATUS etc)、仙波清彦氏、三沢またろう氏といった日本のトップドラマーやパーカッショニスト達もemjmodシンバルを愛用。

emjmodシンバルが放つ斬新な音色は、今多くのドラマー達を虜にしてやまない。

また、シンバルを切り取った際に出る廃材を使用したアクセサリーを製作する”Ceal”というブランドも延命寺氏は立ち上げ、神秘的で美しいデザインのアクセサリーを自らの手で創り出して販売し、人気を得ている。

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そんな”ドラマー”という枠を遥かに飛び越えた"アーティスト"として活躍する延命寺氏に、今回話を訊くことが出来た。

全くの初対面かつオンラインでの取材であったのだが、延命寺氏が持つ音楽観や物作りへの拘り、シンバルや楽器に対する並々ならぬ愛の話はとても興味深く、気付けば取材時間は4時間という長丁場に。

だが、そんな時間を感じさせないくらい延命寺氏が話してくれる内容は魅力的で、”音楽”という枠を超え、人として大切な何かを思い出させてくれた気さえもする。

今回の激人探訪は、メタル以外の音楽に興味が無い人達や、ミュージシャンやドラマーでは無い人達にも是非読んでみてもらいたい。

延命寺氏が持つ人生観には普遍性があり、全ての仕事や物事において意識すべき大切な心構えに溢れているように感じた。

そんな熱く、独創性に溢れた”ドラマーを超えたアーティスト”である延命寺氏を、今回は徹底深掘りしていこうと思う。

今回も是非、最後までお付き合い下さい。


第1章 ”歌”と”ドラムセット”に魅せられた子供時代

延命寺氏が音楽の世界に足を踏み入れるようになったきっかけは大きく分けて2つある。

まず、彼が"音楽そのもの"を意識するようになったのは小学生の時だ。

僕、”ドラム”と”音楽”でハマったきっかけが全然別なんですよ。"音楽"で言うと、母親が歌うことが好きで、全然音楽やってるとかそういうのではないんですけど、単純に"歌"が好きみたいな感じやったんです。だからカーステでユーミンとか山下達郎とか、その辺の曲をよく聴いたりとかしてて、だから歌うことが僕も結構昔から好きやったんですよね。ただ、その時に流行ってた音楽、、僕らの世代で言うとSPEEDとか初期のモーニング娘とかなんですけど、「SPEED良いよな」って友達から言われても、「"SPEED"って、、"速度"やんな?」みたいな(笑)。もう、そのくらいその時に流行ってる音楽とかは知らんくって。

当時の延命寺氏が好んで聴き、口ずさんでいた楽曲はいわゆる"懐メロ"と呼ばれるような古き良きJ-POPであった。

音楽好きではありつつも、流行りの楽曲に対しては全くの無知だった小学校時代の延命寺氏は、周りから「そんなんも知らんの?」と馬鹿にされてしまうほどだったと語っていたが、中学校に上がる頃には少しずつ状況も変わっていったようだ。

ガッツリ音楽を聴き始めたのは中学校に入ってからで、友達でGLAYがめちゃくちゃ好きな子がおったんですけど、「これめっちゃ良いから聴きーや!」って言われてCD借りたらだだハマりしてしまって。その辺りから当時のいわゆる"ソフトヴィジュアル"的なバンドをめっちゃ聴くようになったのが、ちゃんと音楽を聴くようになったきっかけでしたね。その時はやっぱり歌う事が好きやったんで、「ボーカルやってみたいなー」とかそんな感じやったんですよ。

ミュージシャンや一部のマニアを除き、基本的には"音楽を聴く=ボーカルを聴く"という方程式はどんな人にでも当てはまる。

そんな中で、「歌を歌ってみたい」、「ボーカリストになりたい!」という思いが出てくるのは、特に思春期の子供であれば当然の事で、延命寺氏もそんなボーカリストへの憧れを持つ普通の少年の1人であった。

しかし、そんな彼が何故"ドラム"というある意味ではボーカルとは真逆の位置にいる楽器を選ぶ事になったのだろうか?。

それは、彼がまだ幼稚園に通っていた頃の記憶にまで遡る。

またこれがややこしいんですけど、、。ドラムに関しては、幼稚園の発表会とかあるじゃないですか?。あれで小太鼓を演らせてもらった事があって、そこで「太鼓めっちゃ面白いな!」ってなってたんです。それで、卒園するくらいのタイミングやったと思うんですけど、たまたま楽器が置いてある倉庫みたいな所を通り掛かった時に、ちょっと倉庫の扉が空いてて、そこから中を覗いたら奥にドラムセットが見えたんですよ。そしたら「なんやっ?、あの太鼓いっぱい付いてるやつ!」ってなって。それで「あれは"ドラムセット"っていう沢山の太鼓を演奏するやつだよ」って先生から教えてもらったんですけど、もう「太鼓楽しい!」ってなってる子供だったら当然「やりたい!」ってなるじゃ無いですか?。ただ地元が田舎やったし、なかなかドラムが習える環境が無くて、両親も共働きやったんで「習える場所を探す時間もないから諦めな」って言われてしまって。

実は延命寺氏は、"音楽"という存在を意識する以前に、"太鼓を叩く事"の楽しさを先に味わっていたのだ。

そしてその幼少期から味わい、彼の身体に染み付いていた"叩く楽しさ"はどんなに時が経っても消える事はなかった。

そこで「うわー、、やりたいのになー、、」ってなったんですけど、その「やりたいのになー」っていう気持ちが、ずっと消えへんかったんですよ。でも、小学校の時に音楽室にあるドラムセットをちょろっと叩いてみたりしても何をどうしたら良いのかも分からずで、「やっぱ無理なんかなー」とも思ってしまって。それで中学上がって音楽をちゃんと聴き始めて、その時はやるんやったらボーカルって思ってたし、部活とかゲームとか他の事をして生活してたんですけど、やっぱり心のどっかでは「ドラムやりたい!」っていう気持ちはずっと残ってて。

幼少期の頃、既にドラマーとしての道を志していたのにも関わらず、その気持ちをずっとせき止められていたという延命寺氏。

しかし、どんな環境と状況であれ「やりたい!」という強い気持ちを持ち続けていれば、不思議な事に時がくるとそれは唐突に現実となり、本人の目の前に現れる。

幼少期の延命寺氏が持ち続けた「叩きたい!」という強い思いが実現したのは、彼が高校生になってからの事だった。

第2章 "歌をルーツとするドラマー"の誕生

「ドラムが叩きたい!」という気持ちを心のどこかで抱えつつも、始める為のきっかけが掴めずにいた小〜中学生時代の延命寺氏。

しかし、そのきっかけは意外な程あっさりと突然、彼の目の前に姿を現す。

高校入る直前くらいだったかな?。たまたま通学路の途中にあった島村楽器の前を通った時に、"ドラム教室やってます"っていう文字が見えて。それで「これは、ついに来たでしょ!習うしかないっしょ!」って申込書を勝手に書いて、家帰ってオカンに「ドラム、マジでやりたいからやらせてや!」って頼んで習いに行った事がドラムをやりはじめたきっかけだったんです。

長年憧れ続け、自身の中の秘めた願望であったドラムをやっと始める事が出来た延命寺氏であったが、「やりたい!」という気持ちを抱えつつも、音楽の一部としてドラムを意識した事はそれまで全く無かったという。

もう本当に、音楽聴くのとは全く別軸で"ドラム"っていうのがあって。もう「ドラムがやりたい!」は「ドラムがやりたい!」でしか無かった。だから、"GLAYで音楽にハマった"って言いましたけど、ビックリするくらいGLAYのドラムは一切聴いてないんですよ(笑)。ホンマに歌ばっか聴いてましたね。

延命寺氏の音楽のルーツはドラムではなく、間違いなく"歌う"という事にある。

現在もドラムを叩きながらコーラスを取ったり、自身で作曲を行う事もある延命寺氏であるが、この"歌"というルーツは、彼のプレイスタイルや音楽観を形成する上での最も大切な要素の一つだ。

ドラムを始めても、GLAYとかのドラムはうっすら聴くようにはなったけど、全然コピーとかはして無くて。と言うのも、島村楽器でドラムを習い始めて、割とすぐにバンドを組んだんですよ。楽器屋に貼ってあったメンバー募集に問い合わせたら、それが当時島村楽器で働いてたギタリストが貼ったメンバー募集で、最初から割と年上の人達とすんなりバンドを組んじゃったんです。その人達が聴いてた音楽がRAMONESとかNo Doubtとかみたいなパンクやったから、僕が初めてコピーした曲ってRAMONESだったんです(笑)。でも「こういう音楽もあるんだ!」みたいな感じで全然抵抗は無かった。ただ、当時は"青春パンク"が流行ってたんですけど、僕はあまり好きになれなかったです。理由は、歌が上手くないからで、僕、今でもそうですけど、音程外れてる歌がどうしてもダメで聴けないんですよ。

幼少期から歌に慣れ親しんでいた延命寺氏が、どれだけのものをそこから吸収したのかは定かではないが、恐らくその時の経験は、今の彼のプレイスタイルの根底となっているのだと思う。

延命寺氏のドラミングはテクニカルでありながらも楽曲に寄り添うような"歌心"を感じさせる、かなりハイレベルなものだ。

"どう叩くかよりも、どう歌うか"、そんな事を感じさせる彼のドラミングのルーツは「ドラムが叩きたい!」という気持ちを心の片隅で抱えながら聴いていた"歌"にある。

完全にルーツは歌やと思います。歌が今でもある意味一番好きかもしれないですね〜。ドラムも勿論好きなんですけど、とにかく歌はめっちゃ好き。

そんな"歌"をルーツとし、念願のドラムを叩き始める事が出来た高校時代の延命寺氏はそこから大学に進学し、軽音楽部に入部。

いくつものバンドを掛け持ちしながらもメインのバンドを組み、プロを目指した本格的な活動をスタートさせるが、実はこの段階からすでに、彼の代名詞とも言える"シンバル"という物に対する並々ならぬ拘りと追求は始まっていたのだ。

"音楽"という側面での延命寺氏のルーツは"歌"であったが、"シンバル"という側面における彼のルーツは、音楽とは全く別の2つの物事なのであった。

第3章 "シンバルリペア"と"ガンプラ"

前述した通り、現在の延命寺氏は"emjmod"の名の下に一個人としてシンバルメーカーを立ち上げ、シンバル製作を行なっている。

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所有シンバルも100枚以上に及び、彼のシンバルに対する愛情はとてつもなく深いように思えるが、そんな彼がシンバルという物の面白さを実感したのは、ドラムを始めて数年が経った時だった。

高校時代に習ってた先生がJAZZの人だったんですけど、JAZZのシンバルってシズルが打ってあるじゃないですか?。それを見て「何じゃこりゃ?」って思って先生に聞いてみたら、「"チリチリ"っていう余韻を伸ばすやつじゃ」って言われて。そこから派生して、「シンバルって叩いてたら割れるけど、割れた亀裂の一番先に穴を空けると、一旦そこで割れの進行が止まるねん」って言われて、「あっ、なるほどね」みたいな。「そうしたら使えるようになんねや!」って分かって、すぐに自分でもやってみたんですよ。シンバルもちょっと割れただけで使えなくなるのは値段も高いし、もったいないじゃないですか?。だから、そこから自分でリペアする事を考えたりしだして、ドラムマガジンの山村 牧人さんが書いた記事を読んだりしてシンバルリペアを独学で始めたんです。それが確か20歳とかの時だったと思うんですよね。

延命寺氏のシンバルへの傾倒は音や形という面からではなく、"リペア"という一風変わったところからスタートし、それが今の活動に繋がった訳だが、この時はまだ自身がシンバルを1から作り出すとは思っても無かったという。

初めは完全にリペアからでしたね。後輩が「割れたチャイナいります?」って言ってくれたから譲ってもらって、1番最初に改造して作ったのが今でも使ってるZildjianの18インチOriental China Trash。僕のセッティングでいつも左上に置いてるんですけど、あれが1番最初に自分で改造したシンバルなんですよ。ただシンバルもすごい好きやし、リペアも凄い好きだけど、基本的にはバンドドラマーとして売れる事を目標としてやってて、別にシンバルメーカーを目指してやってた訳じゃなかったですけどね。

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ドラマー側から見て左上に高くそびえ立つ、独特な切り込みと塗装が施されたこのシンバルこそが、延命寺氏が一番初めに改造したと語っているチャイナシンバル。

半月を彷彿とさせる切り込みが目を引く1枚だ。

今までのドラマー人生で、自分も何枚かシンバルを割ってしまったことがあるが、手先が不器用な自分はシンバルリペアなど「やってみよう」と思ったことすら無い(笑)。

実は延命寺氏には音楽だけではなく、物作りのルーツもあったようで、それが自身でリペアをやってみようと思ったきっかけになったようだ。

物作りは元々好きやったんです。すごい僕ガンプラ(※訳註:機動戦士ガンダムのプラモデル)が好きで、多分幼稚園くらいの時にはもうプラモデルを作ってたんですよね。小学校から中学校の間ってドラムはやりたいけど出来ずに地元とも反りが合わんくて、ゲームするかプラモデル作るかみたいな感じやって。だから結構昔からプラモデルは作ってて、作るときにヤスリを使ったりだとか、ドリルで穴開けたりとかみたいな事にはすごい馴染みがあったんです。だからプラスチックに穴を開けたり、削ったり、傷を付けたりとかはやってきた訳だから、「その延長線上で金属もいけるっしょ?」みたいにやり始めた感じですかね。

幼少期から黙々と1人で作り上げてきた"ガンプラ"が、まさかシンバル作りで生かされる事になるとは意外だが、確かに延命寺氏の言う通り、削ったり穴を開けたりなどの作業的な共通点はかなりある。

そして、このガンプラ作りのルーツは、"セッティング"という面においても延命寺氏のドラムに影響を与えているようだ。

プラモデルとかって"どういう体制で飾るのか?"みたいな"ポージング"がすごい大事やと思ってて。いくら綺麗に作っても、例えばガニ股でエンガチョのポーズしてたらダサいじゃないですか?(笑)。結局そこやなって思ってて、これはドラムセットのセッティングにも繋がってると思うんです。やっぱり、"美しくセッティングする"というか、"カッコ良く見えるように置く"っていう事が大事で、そこはもう完全にガンプラから来てますよね。

"セッティングが汚いドラマーはドラミングも汚い"という理念を持ったドラマーは数多くいて、自分も同じような考えを持っている。

太鼓の点数こそ千差万別であれど、上手いドラマーというのは大抵においてセッティングが美しく、無駄が無い。

多種多様なセッティングをバンドごとに使い分けている延命寺氏であるが、太鼓類の置き方、シンバルの角度や位置、その全てに彼の"矜持"のようなものを多分に感じることが出来る。

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「このセットを扱うドラマーは只者ではなさそうだな、、」とステージに設置してあるドラムを見ただけで思ってしまうような、"威厳"すら感じさせるセッティングだ。

そのセッティングのセンスは"ガンプラ"によって磨かれ、そのプラモデル作りがシンバルリペアを始めるきっかけにもなったと語る延命寺氏であるが、そこから後の彼は、"膨大な数のシンバルを叩く"ということで、その道をさらに極めたものにしていくのだった。

第4章 1000枚のシンバルを通過したドラマー

ドラムのどこにこだわるかは、ドラマーによって千差万別だ。

スネアに1番のこだわりを持つドラマーもいれば、フットペダルに1番のこだわりを持つドラマーもいるように、無限にこだわれる箇所が存在するのがドラムという楽器であるが、延命寺氏の場合は、予想通り最初の段階から"シンバル"に一番のこだわりを持っていたらしい。

もちろん、スネアとかペダルを先に買ってはいたけど、その後はスネアとかよりもシンバルやったかな。僕、一応ギリギリ家で生ドラムが叩ける環境やったんですよ。だからドラム始めて2年目くらいの時に、正月の小遣いで29800円くらいの安いドラムセットを買ってて。それで、安いドラムの音ってあまり鳴りが良くないですけど、シンバルに関してはそれが特に顕著じゃないですか?。それが嫌でドラム習ってた先生からとりあえずハットとライドだけは買ったんですけど、クラッシュだけが安いシンバルなままみたいなセッティングにしてて。もう"バイン!バイン!"みたいな音で、とりあえず当時はそれが嫌だったんです。そこからクラッシュシンバルを買ってみたいな感じやったかな。確か、K Zildjianの16インチクラッシュを最初に買ったと思います。

生ドラムが叩ける環境だったからこそ、延命寺氏はシンバルの響きにより敏感になっていった。

そこから、彼が今も歩み続けているシンバル探求の長い旅がスタートする訳だが、そこには彼の耳が持つある素質も関係していたようだ。

どの辺からやろうな、、道を踏み外したのは(笑)。僕、結構ハイの音(訳註:高音域の事)がめっちゃ気になるタイプで、ギターとかでも耳痛くなる音出す人とかいるけど、そんなんが本当に耐えられへんすよ。「ホンマに気狂いそうになるから止めて!」みたいな。それはシンバルにも言えて「このシンバルめっちゃ嫌な音するな」みたいなのがあったりだとかもして。あとはやっぱり、バンドで演奏してる時に、多分シンバルの音って1番多く鳴ってるんじゃないかと思ってるんですよ。ハットもライドも、クラッシュも鳴ってるし。ということは、その音が楽曲に与える影響って、勿論めちゃくちゃデカいわけじゃないですか?。だから、バンドの音に合うシンバルっていうのは凄い研究したというか、1回それでやってみて「何かいまいちやな」ってなったら、持ってるシンバルを全部売って、また中古で新しいシンバルを買って試して、また売って、みたいな事をずっとやってたんですよ。そういうのを繰り返していくうちに、色々揃ってきたって感じだったかな。

何故、延命寺氏が高音域に対して厳しい耳を持っているのかは定かではないが、その耳が"高音域の塊"とも言えるシンバルへの厳しいジャッジに繋がっているというのは頷ける。

高音域が強すぎるシンバルはバンドサウンドの中での抜けは良くなるが、他の音と被ってしまったり、目立ち過ぎてしまったりして、音源としてレコーディングした時の扱い方が難しい。

一方で低音域が強いシンバルは、他の音と被りにくく、重みのあるサウンドも出しやすくなるのだが、音抜けがいまいちで存在感に欠ける音の物が多い。

だからその中間を上手いこと突いているシンバルがあれば良いのだが、これがなかなか見つからず、単体で聴いた時に良いと感じても、アンサンブルの中で聴いたらイマイチだったというのは、自分も過去に経験した。

そんな一度ハマったら沼になるシンバルだが、延命寺氏はその道を探求し続け、今までに彼が試したシンバルの数は"変態的"とも言えるくらいの桁に及ぶ。

今までシンバルを何枚買いましたか?って聞かれたら、多分1000枚くらい買ってるんですよ。ヤフオクの評価件数が今1500とかなので(笑)。やっぱり、そんだけシンバル売ったり買ったりとかしてたら相場も分かってくるじゃないですか?。だから「これこの値段で買ったら試して売っても利益出るかな」みたいに売り買いしてましたね。あと今だったらメルカリとかも使ってたりするし、楽器屋の中古で買ってたりもするので、全部入れたらもう不明なんですよ(笑)。勿論、シンバルだけじゃなくて他の楽器も買ってるので、それ全部合わせたら多分もう2000超えてるんですよね。恐らくその半分はシンバルだろうなっていう。だから、多分僕は1000枚は通過してきてる。

恐らく、日本で1000枚シンバルを買った事があるドラマーなど延命寺氏くらいなものだろう。

もしいたとしても、片手で数えて事足りるくらいの数であろうし、そこまでの情熱と探究心を持ってシンバルと向き合う彼のエクストリームな姿勢には恐れ入る。

そんな1000枚のシンバルを通過した延命寺氏は、シンバルのどんな部分こだわりを持っているのだろうか?。

んー、何やろうな?。一旦、28歳か29歳の時に収まったのは、結局"K Zildjain"だったんですよ。それで、フルセット全部K Zildjianで揃えたんですけど、そこからはいよいよ普通のやつでは満足出来なくなってしまって(笑)。「もうこれが良いのは分かった」と。少なくとも"これを持っていけばどこでも通用する"っていうのは分かったけど、それって別に面白くはないじゃないですか?。だからそこからどうなったら面白くなるのか、自分が「良いな」って思える音って何なんやろうって考えた時に、少なくとも鬱陶しいハイが無くて、でもアンサンブルの中でしっかりと抜ける成分はありつつ、でも好みとしてはダーク目な音色が好きなんやって事が分かって。そこから色々なシンバルを探したりして、時に穴を空けてみたりしていったみたいな感じでしたね。

シンバルは基本的に音程の無い楽器であるから、理屈というよりは感覚で選ぶ他なく、良し悪しのジャッジは全て叩く側の耳によって下される。

延命寺氏の耳の感覚では、"同じ音のシンバル"という物はこの世に1枚たりとも存在しないと言う。

シンバルって型番が同じだったとしても、1枚1枚が全部ちゃうんですよね。だから音的に2枚同じ物が揃うなんて事は基本的に無い。やからそれで「これも違う、あれも違う」ってなって、一時期ひどい時は18インチの"K Zildjain Dark Crash"を4枚持ってた時もあって。本当に全く同じモデルの物を。それでも、1枚1枚音が全然違うんですよね。「こっちは良いけど、あっちはイマイチ」みたいなこともあるし。シンバルって、基本的には1枚から1音しか出えへんけど、それって色んな音が混ざった結果の1音じゃ無いですか?。例えば木琴の"ド"の音みたいな1個の音じゃないというか。色々な音がブワァーって鳴ってる中で"ド"の音が強調されて聴こえるというか、メインの"ド"の音が鳴ってる後ろで何が鳴ってるかとか、、絶対音感持ってる訳じゃないから分からないけど、そのトータルで鳴った時の響きが綺麗か綺麗じゃないかみたいなところが、1枚1枚の違いになってるのかな。あとは単体で聴いた時に良い音でも全体で混ざった時に抜けんくなるっていうのは往々にしてあるんで、バンド全体で"ガァーン!!"って鳴らしても存在感が残る、程良い雑味感があるかどうかというか。

延命寺氏の耳の良さというか、音に対する敏感さはかなりのものだ。

勿論、シンバルの大きさの差異による音の違いは分かるが、流石に型番が同じシンバルの違いを聴き分けられる耳は自分には無い(苦笑)。

ただ、型番が同じでも1枚1枚が違う音であるというのは、基本的に手作業で作られるシンバルであるが故に、理屈としては理解ができる。

そんな"違いを聴き分けられる"延命寺氏の類まれな耳は、如何にして作り上げられたのだろうか?。

第5章 全てを耳で覚えた"音楽的にハイレベル"なドラミング

高音域に敏感であったり、シンバルの音の違いを聞き分ける事が出来たりと、繊細な耳を持っている印象がある延命寺氏。

特に絶対音感などは持っていないとは語ってはいるが、彼の音や演奏をジャッジする上での基準はかなり高く、普通の人には聴こえてこない部分の音まで聴こえているのではないかと感じる。

う〜ん、どうなんでしょうね?。自分で自分の事があんまり分からないんで(笑)。でも、さっきも話したみたいに歌のピッチがズレてんのとかも気になるし、リズムずれてるのとかも気になるし、敏感な方ではあるのかもですね。まあ、自分の事は棚に上げてますけど(笑)。だから、自分のプレイバックを後から聴いても「下手くそやな、、」ってめっちゃへこむ事も多いし、逆に「良いな!」って思った時はめちゃくちゃ感動するし。あんまり真ん中みたいな時って無いかもしれないですね。めちゃくちゃヘコむか、めちゃくちゃ聴きたいかのどっちかみたいな。

延命寺氏のドラミングは、ルーディメンツを多用し、目まぐるしく、一聴すると複雑そうに聴こえるフレージングでも、よく聴くと音楽的で理にかなったものになっており、彼の持つ音楽力の高さをこれでもかと感じさせてくれる。

最初の段階でこそドラムを習っていた延命寺氏であったが、高校卒業後はほぼずっと独学でドラムを練習してきたという。

ドラムを始めた高校生から2年間くらいは島村楽器で荒巻 敬司さんっていうJazzドラマーの先生に、Jazzはやらなかったですけど習っていて、その後10年以上は独学でやってました。5年前ぐらいに今僕が師匠と仰いでいる秋山 タカヒコさんに出会ってから、2年間ぐらい年数回定期的にレッスン受けてた時期がありましたけど…まともに習ってたのってそれぐらいじゃないですかね?。専門学校も行ってないですし、大学も外国語大学やったんで。まあ、全然外国語勉強してませんでしたけど(笑)。もう軽音部の部室に入り浸ってずっとドラム練習してましたね。

大まかに分けると、ミュージシャンには、誰かにメソッドをしっかり叩き込まれて上達していくタイプと、ひたすら好きなミュージシャンのコピーをする事で上達していくタイプの2種類が存在する。

延命寺氏は完全に後者で、先人達のプレイを自らの耳で聴き、それを具現化する為の方法を自分自身の力で考え出し、その圧倒的なドラミングを構築していった。

最初はホンマにコピーやったと思います。"基礎の基礎"みたいな練習はめっちゃやりましたけど、ルーディメンツブックを端から端まで全部やったとか、そんなんは全然なくって。そのフレーズを表現するにあたっての手順を練習した結果、今出来る事が出来るようになったという感じですかね。まあコピーというか、"そのフレーズが聴こえてる風に自分で演ってみる"みたいな。だから僕、あんまり完コピはしてないんですよ。もう聴こえている雰囲気を叩いてみて自分のフレーズにするみたいな。譜面とかも書かずに、僕はもう全部"耳"ですね。今もサポートとかする時も譜面とかは使わなくって。僕、曲覚えるのが早い方らしくて、そんなに大量にサポートを受ける事もないからリハで曲全部覚えちゃえるんです。もう何周も聴いて覚える。多分、今まで僕めっちゃ曲を聴いてきてると思うんですよね。それこそ大学生の時とかはTSUTAYAのレンタルセールで全部"ジャケット借り"というか、もう手当たり次第ジャンルも関係なくCD借りて、それを全部MDに突っ込んで聴くみたいな事をしてたりとかしてて。それをするうちに"こうきたらこう"みたいなパターンが分かってきて、新しい曲を聴いても「こうきてこうだから、こうだよね?」という感じにパターンが予測出来るようになってきて。

提示された事を1音も間違わずに出来る事も"実力"だが、"完璧でなくともそれっぽく聴かせられる"のもまた実力だ。

譜面に頼らず、自らの耳を使って楽曲を理解し、完璧でなくとも如何にそのフレーズを真似れるかを追求していったことは、延命寺氏が持つ類まれな耳が形成されていった大きな要因の1つなのだろう。

延命寺氏のドラミングはテクニカルでありながらも嫌味がなく、あくまでも"曲を盛り上げる為"にそのテクニックを使っているという印象がある。

そう言ってもらえるのが1番嬉しいです。よく「テクニカルですね」とは言われるんですけど、僕が演ってる音楽って特にスピードとかが必要な訳ではないし、そういうことを演っても"ドラム芸"じゃないですけど、単なるパフォーマンスみたいな感じになっちゃうから。そういうのには全然興味が無くって、"曲の解釈を広げる為のドラムをどう叩くか"やと思ってて。今はSNSの普及で"テクニカル主義"みたいになってるとは感じるんですけど、そのテクニックをどこで"音楽"にするかが大事やと思うんです。例えば「BPM300で連打出来ました!」みたいなのには、結構否定的だったりするかもしれないですね。「BPM300の曲で叩きました!」なら分かるんですけど、クリックに合わせて叩いてるだけだったら「結局何になるの?」って思っちゃうというか。何か、"BPM300で叩ける事"が主目的じゃないのに、それが主目的みたいな感じがして「競技じゃないんだからさ」みたいな、、。「もっと大事な、考えるべき事あるやん?」とは思ってしまうかな。

ドラムという楽器の本来の役割は、その曲に見合った的確なグルーヴを提示し、時に押し、時に引き、曲の表情に緩急を付けていくというものだ。

SNSでよく見かけるような"BPM合戦"のように、ドラムという楽器は競技的になりやすい側面もあるが、"ドラムは音楽のどの部分に影響を与えるのか"という事を知ることが、本当の意味での"良いドラム"を叩く為の第1歩なのである。

延命寺氏は大量に音楽を聴き、そこで聴いたフレーズを自分なりの解釈に落とし込んで表現していくという、"耳から全てを吸収する"ということの繰り返しによって、その類い稀で良質な音楽全体を俯瞰出来る良質な耳とドラミングを手に入れた。

そしてそのドラミングは、今現在様々なアーティストの楽曲に彩りを与えている。

第6章 "grunband"と"epi frag beater"から見える延命寺氏の音楽観

延命寺氏がドラマーで参加してきたバンドや、サポートとして携わってきているアーティストは無数にいる。

取材に備え、延命寺氏が過去にサポートで参加してきたアーティストや、現在も参加しているバンドを一通りチェックさせてもらったのだが、「一体、今この人は何箇所でドラムを叩いてるんだ!?」と思ってしまうほど、彼は様々な場所でドラムを叩き続けてきている。

ジャンルを問わない多様な現場で活動している延命寺氏であるが、今現在、彼のメインと言える活動になっているのは、"ベース&ドラムの2人編成"の異色ユニット、"grunband"だろう。

僕と相方(※訳註:ベースのKIHIRA氏)の両方とも、大阪の門真市ってところにある"grun studio"っていう所で講師をやっていて、最初はそのgrun studioに在籍してた講師の人らで街のイベントに出たりだとか、老人ホームに演奏しに行ったりするちょっとアイリッシュが入ったようなアコースティックバンドみたいな感じやったんですよ。それがメンバー全員入れ替えて、普通のスタンダードなバンド編成になって何回かライブをしたんですけど、ボーカルもギターも各々自分でプロジェクト持ってる人やったから抜けてしまって、僕と相方だけ残ったんです。「他メンバー探す?」って話になったんですけど、「いや、合う人なんかおらんでしょ」という感じやったんで、「じゃあ、1回2人でやってみます?」って僕から提案してみた形で始まって。元から相方はガリガリベースを弾くスタイルで、相方が元々やってた"bradshaw"ってバンドの時とかは、ベースやのに音がギターみたいだったんです(笑)。普通のバンドだったら、ドラム、ベース、ギター、という順番の音の重なり方ですけど、もうそこではドラム、ギター、ベース、という感じやって、「何やねん、その音はよ!」みたいな(笑)。「お前、ベースやる気あるのか?」みたいな音の感じやったから、「まあ、いけるんちゃう?」って言ってみたら、「じゃあ、やってみるか」って相方も乗ってくれて。そこから2人で曲を作り始めたんです。

ベース&ドラムというリズム隊のみの編成でありながら、grunbandの奏でる音は意外なほどキャッチーだ。

ギターのようにコードを奏でるベースサウンドは、メロディアスながらも芯がズ太い響きで、そこに重なる延命寺氏のドラミングは、とんでもない手数を繰り出しながらもメロディにしっかりと呼応し、心地よいグルーヴ感を楽曲に与えている。

時折入るキメフレーズや民族楽器的アプローチは、"リズム隊デュオ"ならではという感じも抱かせてくれて、思わずニヤリとしてしまう。

インストバンドを2人ともやった事がなかったので、「これ、どうしたら曲として成立するんだ?」っていう所から始まっていきましたね。やっぱり、分かってもらわれへん曲を演るのは嫌なんですよ。"ベースとドラムだけのデュオ"って、結局フュージョン系のセッションだとか、ベースがコード弾きして歌があって、みたいな感じになるじゃないですか?。そういう感じが嫌で。"ベースとドラムだけしかいないけどポップに聴かせる"というか、打ち込み入れるのも絶対嫌やったので、「何としても2人だけの人力でポップな曲を演りたい!」みたいに考えてて、最初の半年はスタジオに5〜6時間入ってあれこれやってみたいな感じで曲を作ってましたね。

編成や挑戦している事はマニアックで、決して主流な事では無いかもしれないが、延命寺氏が目指すのは、あくまでもオーバーグラウンドな場所だ。

"人に聴いてもらって、観てもらう事"

それが延命寺氏は何よりも大事だと語る。

他のバンドとかでもそうなんですけど、やっぱり"フェスに出たい"というのが願望として強くって、広い野外で大勢の前で演りたい。やってる事はアングラっぽいけど、行きたいところはオーバーグラウンドというか、「分かる人にだけ分かれば良い」では無いですね。ざっくり言えば人前で演ってる以上はオナニーにはしたくない。別にそれで良かったのだったら発表する必要も無いし、好き勝手演ってれば良いと思う。でも、"人前で演りたい"、"誰かに聴いて欲しい"、っていう願望があるっていうことは、"理解して欲しい"って事やから演ってるわけで。だから、そうありたいですね。

「沢山の人に観てもらいたいのなら、流行に乗ってれば良い」

こういう話をすると、そのような横槍を入れてくる人も中にはいるが、延命寺氏の姿勢はそれとは全くベクトルが異なるものだ。

自分自身が"カッコ良い"と信じている事に、どれだけ多くの人を賛同させられる事が出来るか、そこに延命寺氏は挑戦しているのだと思う。

特に延命寺氏は、昨今の音楽界では希薄になってしまった"生演奏"の良さを幅広い層に伝えたいと考えており、そこに挑戦しているのが"epi frag beater"での活動だ。

ここ数年の間は活動を休止していたらしいのだが、現在は復活しており、このバンドでの活動姿勢は延命寺氏にとって大きな意味を持つ。

epi frag beaterは自分がプロデュースというか、「これやったら本気で面白いな!」と本気で思ったバンドで、僕主軸で組んだバンドみたいな感じですね。このバンドを組んだ時に考えてた事は、"ストリートでもカフェでもどこでも演れる編成"という事で、もう僕自身が「どこでも演奏したい!」って常に思ってるところがあるんです。そもそも僕、ライブハウスがあんまり好きじゃないんですよ(苦笑)。もちろん、嫌いでは無いんですけど、ライブハウスって"音楽をする場所"じゃ無いですか?。やけど、"音楽をする場所でしか音楽が出来ない"というのは嫌なんです。もっと日常の中に生演奏があって欲しいんですよね。それこそストリートでもお店でも生演奏してて欲しいし、もっと生演奏がオーバーグラウンドで"普通のもの"であって欲しい。今の日本の事情的には厳しいかもしれへんけど、「生演奏がわざわざ聴きに行かなきゃいけないものって違くない?」みたいには思う。もっと普通に生活の中に音楽ってあるもんやし、こと打楽器に関しては机叩いてても打楽器になるわけやし。「もっと自然に音楽があったらいいのにな」っていうところがあるから、もっと色々な場所でライブがしたい。そこで、普段ライブハウスに来ない人達にも生演奏を聴いてもらって、「良いな」って思ってもらえたら、もっと広がっていくやんなって思ってるんですよ。

延命寺氏はepi frag beaterではパーカッションを担当し、カフェやバーなどのライブハウス外での生演奏に力を入れ、"日常の中に溶け込む音楽"を日々人々に伝え続けている。

しかし、昨今の混乱などの影響もあり、現代では生演奏を聴ける場所が減っていき、音源もDTMの進化で実際に演奏せずともそれに近いことを表現出来るようになってしまった現実があるのも確かだ。

そんな世の中だが、延命寺氏が伝えたい"生演奏の良さ"とは何なのだろうか?。

"生きてる感"じゃないですかね?。"良い音で正確なリズム"ってもう人間が演らなくても良いじゃないですか?。確かに音源化する時はそのほうが良いっていう事もあるんだろうけど、自分が演る音楽はそうじゃないというか。やっぱり、"人力で演る意味"を凄い考えていて、その上でやっぱり生音じゃないと違和感を感じてしまうというか「これじゃないな」って思ってしまうんです。サンプリングパッドから鳴るパーカッションの音とかにもなんか馴染めなくて。やっぱり"生演奏の良さ"や"生音の良さ"は推していきたいですね。

その場の空気を直に振動させて音を鳴らしているのが生楽器による演奏の特徴で、それは正に"生きてる音"という事に他ならない。

どんなに良い音だとしても、機械の音というのはスピーカーから出ている音でしかあらず、生音のように、その場の空気を振動させて出した音とは全く違う。

延命寺氏が鳴らしたい音というのは、その人間にしか鳴らせない"生きた音"なのだ。

延命寺氏が持つ"生音"に対するこだわりと価値観は、空間を揺らすような躍動感あるグルーヴと、派手に聴かせながらも音楽に寄り添う的確なアプローチという形で彼のドラミングに確実に昇華されている。

しかし今、そのこだわりと価値観は"ドラム"という枠組みを大きく飛び出してしまった。

延命寺氏が持つその"生音"に対するこだわりや価値観は、"物作り"という側面においても昇華され、彼を既存の枠組みを超えた次のステージへと導いていくのだった。

第7章 縁を繋いで誕生したemjmodシンバル

"延命寺といえばシンバル"、彼を知る者ならば誰もがそう思っているだろうことは否定の余地がない。

延命寺氏が若き頃よりシンバルリペアに親しみ、数々のシンバルを試しては改造するという事を繰り返していたのは前述した通りだが、彼が"emjmod"という自身のシンバルブランドを立ち上げた経緯は、全く予想だにしない"縁"が繋いだものだった。

元々20歳くらいからバンド活動をしつつ、シンバルリペアを独自でやってたわけですけど、9年くらい前にそれまでやってたバンドを全部辞めざるを得ないような状況になってしまって、もうホンマに1人になっちゃったんです。今までずっと"バンドドラマー"としてやっていたのに全てのバンドが無くなってしまって、、。もうバンドのドラマーがバンド無くなっちゃったら、ホンマに何にも無くなっちゃうじゃないですか?。もうそれで、「どうしようか?」ってなっちゃったんですよ。でも、僕は今までやってきたどのバンドのメンバーも素晴らしいって事は確信してたんで、今はみんなバラバラになっちゃってるけど、「いつかは出来るやろう」と思ってて。ほんなら、自分がドラマーとしてもっと有名になれれば、またバンドが出来た時にみんなを引き上げられるんじゃないかなって思って、そこから1人のドラマーとして活動を始めたんです。

携わっていた全てのバンドが無くなってしまい、孤独の身になってしまった延命寺氏。

そんな状況でも「またバンドが出来た時のために」と彼は自身の歩みを止めず、様々なバンドのサポートをこなしつつ、多様な音楽イベントに足を運び、ドラマーとして多くの事をそこから吸収していった。

そうした活動をしていく中で、今後の延命寺氏の運命を大きく変化させたある出会いが訪れる。

1人のドラマーとしてサポートとか色々なイベントに顔を出したりしていく中で、秋山タカヒコさんと出会うんですよ。ちょうどその時って秋山さんが毎月大阪で繋がりのあるドラマーさんを呼んで2人でセミナーするみたいなイベントをやってて、それを観に行ったんですけど、その時自分は秋山さんの存在は知らんくって。単純にゲストが柏倉さん(訳註:柏倉隆史氏)やったから行ったんです。でも、そこで観た秋山さんのドラムに衝撃を受けて、、。僕、初めて「この人に教えてもらいたいな」って思ったんですよ。大学卒業してからも「良い師匠が欲しいな」と思ってて、体験レッスンとかには行ったりしてたんですけど、あんまりしっくり来んくって。でも、秋山さんのパフォーマンスを観た時に「何じゃ、この人!?」ってなってしまって、もうその日に「教えて下さい」って言って、そこから月1くらいでレッスンをしてもらう関係になったんです。

自身が観てきた数々のドラマーを遥かに凌駕する秋山氏のドラミングに衝撃を受けた延命寺氏は持ち前の行動力と決断力で、その日のうちに秋山氏に師事する事を決意。

そこから様々な事を秋山氏から吸収していった延命寺氏であったが、ある日のレッスンでの何気ない会話が、その後の彼の運命を決定づける。

ある日のレッスンの時に、秋山さんが「シンバル割れちゃってさ」みたいな事を言ってきて。そこで「僕、直せますよ」って話をしたら「えっマジで!?、そんなん出来るの?」って秋山さんがシンバルリペアに食いついてきてくれたんですよね。それでスタジオのレッスン終わってから工具とか持ってきて秋山さんの目の前でシンバルを直したら、それを秋山さんがすごい面白がってくれたんです。それで、ちょうどその時って秋山さんがドラムイベントを外向けにやろうかって考えてた時期だったんですよね。それまでも"秋山会"っていう飲み会みたいな事をドラマーを集めて開催してはいたんですけど、その秋山会をドラムイベントにしようと思ってるという話をしてくれて、そこで秋山さんから「イベントで"シンバル穴あけショー"やってよ」と言われて。東京で開催されるイベントやったんですけど、他出演者の方々は秋山さんの繋がりで呼ばれてる人やったから、「マジかよ!?」みたいなメンツやったんですよ(笑)。その錚々たる演者の中、何故か僕の"シンバル穴あけショー"っていう持ち時間があって(笑)。お客さんの前で工具で"ギュイーッ"って穴開けて、「こうやったらシンバルって直ります!」で、お客さんも出演者も「おーーーー!!!すごい!!!」ってなる、みたいな謎の出番があったりしました(笑)。

あくまで個人レベルでしかやっていなかったシンバルリペアが思わぬところで受け入れられ、面を食らった延命寺氏であったが、この日の"シンバル穴あけショー"はまた更に思わぬ繋がりに彼を導いていく。

そういう事をしている中で、横山 和明さんっていうJAZZドラマーの方がいるんですけど、その方とお互い楽器が好きという事で凄い仲良くなって、横山さんが大阪来たら楽器屋を案内させてもらったりだとか、逆に僕が東京に行ったら横山さんにアテンドしてもらって楽器屋に連れてってもらったりみたいな感じで交流してたんです。そこから数年後に横山さんが尚美専門学校で講師をやることになって、そこでドラムマガジンとかでもコラムを書いてる山村 牧人さんも講師をされていて、横山さんと牧人さんがめっちゃ仲良くなったっぽいんですよね。それで、これは多分なんですけど、「大阪に"シンバル穴あけショー"をやってる面白い奴がいる」って横山さんが牧人さんに話してたっぽいんですよ。そしたら2年前くらいに牧人さんから突然DMが来て、「シンバルのイベントをしようと思っている」と。他出演者は牧人さんと"小出シンバル(※訳註:国内唯一のシンバルメーカー)"の小出さん、あとは"ARTCYMBAL"という屋号で東京でシンバルを製作されている山本 学さんで、「そこに延命寺さんを加えて開催したいと思ってるんです」という感じの連絡が来て、、「いやいや、どういうこと!?」って(笑)。小出さんは言わずと知れた日本唯一のシンバルメーカーを作った人で、山本さんだって自分でトルコまで材料仕入れに行ってシンバルを作ってしまうような人だし、それこそ牧人さんだって、シンバルリペアをやり始めた頃はドラムマガジンの牧人さんの記事を呼んでリペアの勉強してたくらいなので、、。もう「何でそのメンバーの中に自分なの?」みたいな(笑)。

築き上げてきた数々の縁と"シンバル穴あけショー"という彼にしか出来ない特異なパフォーマンスの噂が組み合わさり、名だたるメンツと共にイベント出演する機会を延命寺氏は得る事になった。

"シンバルマニアックス"とでも形容すべきメンツの中に突如として組み込まれた延命寺氏は、このタイミングで大きく意識が変化したみたいだ。

「もうこれは、ただの穴あけシンバルなど持ってったらヤられるぞ」と(笑)。その時に「こういう加工したら面白いんちゃうかな?」みたいに今まで考えてた加工をとにかく全部やって、それをやってる中で偶然面白いやつが出来たりもしたんです。元々はシンバルの端までいかんようにスリットを入れてたんですけど、ふと「これ切りきったらどうなるんやろ?」って思ってやってみたら音がバラバラになって、「これめっちゃ面白いやん!」ってなったシンバルがあったんですけど、それが最終的にアメリカで特許を取るところまで行けて。そういう面白いシンバルをいっぱい作ってイベント当日を迎えて、作ったシンバルを発表したら出演者も含めてみんなが「何じゃそりゃ!?」みたいになってくれたんですよ。もう「そんなん見たことないです!」みたいな。

"背水の陣"とも取れるような環境下に追い込まれた延命寺氏が偶然生み出し、最終的にアメリカで特許を取るという前人未到のところにまで行ってしまったシンバルが、こちらの"マルチトーンシンバル"。

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叩く場所によって"音色"が変わるのはどのシンバルでもそうだが、これは叩く場所を変えることで全く違う"音程"が得られるという全く新しいタイプのシンバルだ。

数多くのシンバルを改造する中で培われてきた延命寺氏のアイデアが結集した渾身の1枚で、偶然でたアイデアとは言え、このユニークな発想は非常に面白い。

そんな延命寺氏が作り上げた他に無い仕様のシンバルは、国内を代表する"シンバル製造のプロ"をも唸らせる。

僕のシンバルを見た時に、小出さんが結構反応してくれたんです。それまで小出さんとは面識が無くて、1回だけ小出シンバルのファクトリーツアーに遊びに行かせてもらった事があったので"顔は知ってる"くらいな感じだったんですけど、そこで自分の事をちゃんと認識してくれて、かつ「おもろいもん作ってるやん」みたいに凄い色々誉めてくれたんです。僕も"シンバルを0から作りたい"みたいな願望はあったから、小出さんに「僕も自分でシンバル作りたいんですよね」って話をしたら、「ほな教えたるから暇な時に来たら?」って言ってくれて、そこから1年くらいちょこちょこ時間ある時に小出さんの所に行って、シンバル作りを教えてもらってたんです。最初はgrunband用のシンバルが作りたいと思ってて、1年くらいかけてハイハットとライドとチャイナを作らせてもらったんですけど、結果的に小出さんが「延命寺くんの作るシンバルおもろい音するし、全然売れるクオリティやから自分でブランドやったら?」って言ってくれたんですよね。それこそ"小出シンバルからシグネチャーモデルを出す"みたいなことは頭の中にあったけど、まさかシンバルメーカーやってる人から「シンバルメーカーやったら?」って言われるって、「そんな事ある!?」みたいな感じで(笑)。でも、小出さんがそう言ってくれるのならやってみようって思って、emjmodが出来たんです。

縁が縁を繋ぎ、日本を代表するシンバル製造者である小出氏まで辿り着き、彼からの後押しで遂にemjmodが本格始動。

"現役ドラマーが自らの手で作るシンバル"という前代未聞なシンバルは瞬く間に話題を呼び、数々のドラマーがこぞってemjmodを使用。SNSなどでも延命寺氏のその独自の活動は話題にもなった。

ここ数年程の出来事ではあるが、あくまでも個人レベルでしかやっていなかったシンバルリペアが発展に次ぐ発展を遂げ、遂に自社ブランドを設立するところまで行ってしまうとは、本当に人生は何があるか分からない。

もう繋がりが繋がりを呼んでメーカーになりましたって感じで、これはもう"縁"でしか無くて何かもう、秋山会に"シンバル穴あけショー"で出させてもらった辺りから自分の周りの景色が変わってきたというか、、。やっぱり、1回バンドが全部無くなって1人で動き出したっていうのは凄いターニングポイントやったと思いますね。もちろん、そんなスッと上手く行った訳でも無く、一時期はアコースティック界隈でサポートしてた時期もあったけど、そんなん全然上手くいかなくて、他にも上手くいかん事とかもいっぱいあったけど、収まるところにちゃんと収まったというか、、。まさかベースとドラムでインストやるとはって感じで予想外やったけど、granbandも出来てるし、epi frag beaterも8年ぶりにやる事が出来て、活動が止まった時も「絶対にこのメンバーでもう1回やろう」って決めてて、やっと5人で良い形で出来るようになったし、、。良いところに収まれたというか運が良かったというか、、。自分には今出来てる事が出来るような才能があったのかな?とは思うけど、才能があったからって今出来てる事が全部出来るわけではないじゃないですか?。秋山さんとの出会いを皮切りに色々な人との出会いがあって、小出さんとの出会いがあった結果シンバルも作れてて、だから全部"縁"やし"運"やし、"人が運んできてくれたもの"やと思ってます。

出来ることを1歩ずつやっていくこと、例え1人になっても歩みを止めないこと、その大切さを延命寺氏の話を聞いて再確認出来た。

縁や機会というのは、どんな時でも行動している者にしか与えられない。

自分の歩いている道が何に繋がるかその時点では分からなくても、歩き続けていれば、今まで見たこともないような景色に出会うことが出来るかもしれない。

バンドを無くし、1人になっても歩みを止めなかった延命寺氏は"emjmod"という全く予想だにしなかった自身のもう一つの肩書きを手に入れ、日々オリジナリティ溢れるシンバル作りに勤しんでいる。

次章では、そんな延命寺氏のシンバル作りへのこだわりと、彼のもう一つの顔でもある、シンバルアクセサリーブランド"Ceal"での物作りに迫ってみたいと思う。

第8章 "emjmod"と"Ceal"での活動に見える"役目を与えられる力"

延命寺氏が作り出すemjmodシンバルは、ベテランドラマーから若手ドラマーまで、様々な年代のドラマーからの支持を獲得している。

延命寺氏本人はその要因は何だと考えているのだろうか?。

やっぱり他に無い音をしてるからじゃ無いですかね?。それは自分で叩いた音を聴いても思うんですよ。響き方が独特な音をしているというか、、。でもそれって"良くも悪くも"という感じで、多分アコースティックでトラディショナルなジャズとかには合わへんと思う。色々な音が"ブワァーっ"って同時に鳴ってる感じがあって、だから他の楽器に食われにくい音をしてると思うんですよね。基本的に自分はダークな音色が好きやからダークさは残しつつも、アンサンブルの中でしっかり抜けてくれるみたいな。だからそこかなとは思ってて。

1000枚以上のシンバルを通過し、"バンドサウンドの中で映える音"を常に追求してきた延命寺氏が作り出すシンバルは、どんな爆音も突き抜ける極上の鳴りを持ってプレイヤー達を魅了する。

バンドサウンドの中では音が散り、輪郭が曖昧になりがちなシンバルも多いが、emjmodはその問題を一挙に解決してくれるシンバルであるらしく、非常に興味を惹かれる。

そしてemjmodの特徴は音だけではなく、美しいデザインもその特徴の1つだ。

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デザインはある意味1番こだわってるかもしれないですね。もちろん音にもこだわってるんですけど、やっぱりドラムセットってシンバルも含めて"舞台装置"の1つやと思ってて。ステージの真ん中にドーンと鎮座してるわけだから、それがカッコ良くないといけないっていうのは絶対にある。だからブサイクなシンバルとかは絶対に嫌なんです。他のメーカーとの差別化をしたいというのも勿論あるし。

emjmodシンバルのデザインには、ただ煌びやかなだけでない骨董品的な味わい深さがある。

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どこか神聖で、荘厳な雰囲気すら感じさせる高級感溢れるデザインのシンバル達は、見ているだけで「どんな音がするのだろう?」と興味をそそられざるを得ない。

僕のデザインに対するこだわりって、もうゲームとかガンプラとか、あとは生き物図鑑とか、そういうものから出来てるなって思うんです。ゲームで言うとファンタジーな世界観が好きで、僕のシンバルって"太古の遺物"みたいな感じがあると思うんですけど、そういう感じは全部ロールプレイングゲームに出てくる武器とか装飾品、あとは生き物の模様の感じとか、そういうものからオマージュされてるんだと思います。

今までの人生で延命寺氏が夢中になったものから得たセンスが全て結集され、emjmodシンバルは作られている。

そのこだわりは模様、質感、色味と多岐に渡り、延命寺氏はその全てに妥協を許さない。

ハンマリング(※訳註 シンバルにハンマーを打ち形状を整えて行く作業)の質感とかもあるし、レイジング(※訳註:シンバル表面の溝)の模様とか、こだわりはもう全部。素材となる青銅の状態とかもバラバラで、真っ黒のやつもあれば部分的に金色になってるやつとかもあったりするんですよ。だから元の色とか、分かれている色をどう活かしてレイジングするかも考えたりしますね。1枚1枚が本当に違うので。

全て同じデザインに統一するだけではなく、1つ1つがまるで違う素材の模様を自身の美意識を通して精査していき、その違いを活かしたシンバル作りをする。

その一連の流れが、emjmodシンバルが持つ荘厳なデザインに繋がっているのだ。

そして、延命寺氏が持つそのデザインに対する美意識は、シンバル製作以外の物作りにも活かされており、シンバルを切り取った際に出る端材を利用したアクセサリーブランド、"Ceal"も彼は運営している。

シンバルをリペアする時って割れてる部分を切り取るんですけど、そこで出てくる破片の形が面白いなって思ってて。人為的に出来た丸とか三角とかそういう形じゃなくて、偶然出来た形やから歪で独特な形の破片が出来るんですよね。だから20歳でシンバルリペアを始めた当初からその破片を捨てずにずっと取っておいたんです。そんなことをしつつ破片を溜めてたら、ある時知り合いの"k:soul:y a.k.a YAN"さんって絵描きさんが「シンバルでアクセサリー作りたいから破片送ってくれない?」って事を言ってきたから送ったら、樹脂でシンバルの破片を固めてペンダントとかイヤリングにして送り返してきてくれて。それをみた時に、「あれ?、この手法だったら俺にも出来るわ!」って思ったんです。昔から「形が面白いからアクセサリーとかに出来ないかな?」とは思ってたんですけど、破片の状態だと棘があるから体に付けたら怪我するし、かといって削って滑らかにしてしまったら面白さがなくなってしまうよなとは考えてはいたんです。でも樹脂の中に入れてしまえばそこは解決されるから、それが分かって自分でもシンバルアクセサリーを作り出したんですよ。

延命寺氏が作り出すCealのシンバルアクセサリーは、emjmodシンバルと同様に、とても洗練されたデザインとなっている。

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延命寺氏はアクセサリー作りを専科としている訳では決して無いが、そんな事を微塵も感じさせない細かな部分へのこだわりが見える繊細な形態と、"神秘的"とすら感じる美しい色使いは、写真を見ただけでも惚れ惚れとさせられてしまう。

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そんな延命寺氏の多彩な才能と美的センスが結集されたCealアクセサリーだが、近日また更なる進化を遂げるようだ。

シンバルの破片を樹脂に入れる手法だと、純粋なシンバル素材だけでは無いわけじゃないですか?。他にガラスも混ぜたりしてたので、「純粋なシンバル素材だけでアクセサリーを作れたら良いな」とも思ってたんです。それで、ちょうど1年くらい前かな?、神戸の"Huddle"っていうアクセサリーブランドをされている永藤 博胤さんからInstagramのDMでメッセージが届いたんです。永藤さんも趣味でドラムをやってはったみたいなんですけど、僕の作ったシンバルの模様や色にすごい興味を持ってくれて。そこで僕もHuddleのアカウントを覗いてみたら凄い素敵なアクセサリーを作ってて、そこから「1回会いましょうよ」という流れになって会いに行ったら凄い意気投合しちゃったんです。そこから「何か面白いことやろう!」って事になって、"シンバル素材だけでアクセサリーを作る"って事に着手し始めたんですけど、ようやくそれが形になってきたタイミングが今ですね。今は「パッケージングをどうしようか?」という話をしていて、それが出来たらもう販売開始です。

Huddle x Cealのコラボレーションで完成されるシンバル素材のみで作られたアクセサリーというのがこちら。

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ナチュラルな服装にも合うそうな色合いのシンバル素材に、延命寺氏が初めて改造したチャイナシンバルを彷彿とさせる半月がさり気なく浮き出されたそのデザインには、男女問わず身に付けられるようなスマートさを感じる。

延命寺氏のTwitterでの発言によると、「落としても良い音が鳴る気がする」との事で、その音色もまた気になるところだ(笑)。

8月中には販売が開始されるとの事なので、実物を手に取れる日も近いだろう。

emjmodが生まれた時と同じく、Cealの方も縁が縁を繋ぎ、また新たなムーブメントが誕生しつつあるわけだが、emjmodのルーツであるシンバルリペアも、Cealでのアクセサリー製作も、その原動力は"もったいない"であるという。

僕、めちゃくちゃ"もったいない病"なんですよ(笑)。ホンマにご飯とかも捨てるの嫌で「捨てるんだったら俺が食うわ」って思うし、「生ゴミとかも畑に植えて肥料にするわ!」みたいな。シンバルとかもすぐに割れたら使えなくなるのはもったいないし、だからこそ自分でリペアする方法を考えたりしてたんです。切った時に出るシンバルの残骸は今でも山ほどあって、それを捨てるのは何か忍びないというか、「こいつらにも何か役目はあるはずや」って思ってて。それで、それに役目を与えられる能力を自分は持ってる。初めは割れてる部分を切除してもう1回使えるようにするっていうだけだったけど、そこから加工を施して全然違うシンバルにするという事も、使えなくなったやつをバラバラに解体してアクセサリーに生まれ変わらせる事も出来る。だから、他の人からしたら処分に困るただのゴミでも、僕からしたら宝物なんですよね。きっと全てのものにはちゃんと価値があるのに、それが理解されないまま捨てられるのが嫌ということなのかもしれないです。「どんなクソ野郎でも、きっとフィットするところはあるんやろうな」とも思うし。僕も自分自身のことを出来た人間とは思わんし、周りのバンドマンでも「何でこいつこんなクソなんやろうな?」って思う奴も多いけど(笑)、でもその中に一筋光るものがあったりするし、そこにちゃんとスポットが当たらないのは何かもったいないというか。何でもそうやと思うんですよね。ゴミって"ゴミ"と思ってるだけで、絶対に何かしら使い道はあるはずやから、簡単に入れ替えたくはない。

この言葉には、emjmodとCealにおける延命寺氏の価値観の全てが詰まっているように思う。

延命寺氏は、自身の事を"ドラマー"ではなく、"アーティスト"であると定義していて、自分もそれには納得出来る。

emjmodやCealにおける彼の物作りのクオリティは既にドラマーの範疇を超えているし、価値無き物に価値を与えることが出来る人間の事を、"アーティスト"と呼ばずに何と呼べば良いのだろうか?。

全ての物に価値を見出し、「これを使って自分に何が出来るのか?」という事をポジティブに考え続ける延命寺氏の姿勢は、生きる上での大切な何かを思い出させてくれた。

人が気が付かない価値に気づき、そこから数々の物を生み出している延命寺氏であるが、彼が目指す最終目的地はどこになるのだろうか?。

現在彼は、そこに向かって着々と駒を進めている最中だ。

最終章 本物の唯一無二

今年の夏、emjmodシンバルは海を越え、アメリカのナッシュビルにて開催されたMusic City Drum Showに出展。

自身が製作したシンバルが遂に海を越えたわけだが、これも延命寺氏が持つ縁の力の作用であったようだ。

ホンマに海外進出できたのも、結局人の縁が周り周った結果でしかなくて。アメリカにBronze pieという輸入代理店をやっているバークさんっていう人がいて、偶然その人の奥さんの実家が小出シンバルの近くだったらしく、その繋がりで小出さんとバークさんが仲良くなって、「俺がアメリカで代理店やるよ」って事になってBronze pieで小出シンバルの流通を始めたらしいんです。そうこうしてるうちにバークさんから僕に直接連絡が入って、彼も僕の加工したシンバルにすごい興味を示してくれたんですよ。それで「良かったらBronze pieにも掲載して販売するよ」って言ってくれて。そこから、小出シンバルと僕のダブルネームというか、その時は"emjmod"という屋号も無かったので、小出シンバルに"延命寺 a.k.a emj"って入ったシグネチャーモデルのシンバルを作って、アメリカで売ることになったんです。そういう経緯からバークさんがやってるBronze pieとの交流が始まって、Bronze pieがMusic City Drum Showに出展する事になったから、同時にemjmodも出展出来ることになって、そこも全部繋がってるんです。

様々な偶然が重なり合い、遂にemjmodは海を越えた。

Music City Drum Showにおけるemjmodの評価は上々で、そのサウンドは世界でも通用するということが堂々と証明されたようだ。

今後も僕の作ったシンバルを海外で売りたいって考えてはいるかな。これまでの西洋には無かったような楽器を作ってるって色々な人に言ってもらえてるし、きっと日本から出た時に「何じゃこりゃ!?」ってなると思うんですよね。だからもう、日本をはみ出して世界に行こうって思ってます。いやでも、自分で作ったシンバルが海を越えるなんて全然思ってもみなかった(笑)。シンバルメーカーをやるってこと自体思ってもみなかったし、国内でも三沢またろうさんのシグネチャーモデル作るとかも、、。もう「NHKの米米クラブで俺のシンバル映るとか、そんなんあるぅ!?」って(笑)。もうここ3年くらいでめちゃくちゃ人生が変わりましたね。ホンマに急展開というか、「もう全部変わってる!」みたいな(笑)。

"もったいない病"から生まれたシンバルリペアと、価値無き物を宝に変えたシンバルアクセサリー作りが発展し、emjmodという、世界に通用するとてつもない創造物を延命寺氏は生み出した。

それはここ数年での出来事で、こんな未来が来るなど延命寺氏本人ですら想像が出来なかったと語っているが、人生が変わる時というのは、往々にしてそんなものだ。

ただその変化は、延命寺氏が"音楽と物作り"に人生を振り切り、心血を注いできたからこそ訪れたのであり、この数年での彼の飛躍は、それまで積み重ねてきたものの結晶なのだと自分は思う。

"石の上にも3年"って言葉がありますけど、ホンマにその石の上を温め続けるしかないよなって思ってますね。自分の座ってる石をとことん温めて、それが溶けるくらいまで温める。でも結局、その石がいつ溶けるのかなんて分からへん。もしかしたら死ぬまで溶けへんかもしれないし。そこで、どの石にBETするんかっていうのが人生なのかなって思う。最近、「人生ってギャンブルやな」ってめっちゃ思うんですよ。"どこに自分を賭けるのか?"っていうか。でも賭ける限りは自分を知らなきゃ賭けれへんじゃないですか?。だから自分を知ることが絶対必要だと思う。

延命寺氏が若き頃より座り続けたドラムとシンバルリペアという石はいつの間にか溶けて、今彼はシンバルメーカー、そしてアーティストという新しい石に座り始めた。

その新しい石に延命寺氏を導いたのは紛れもなく人との縁が巡り巡った結果であり、それは彼が人生で最も大切にしているものの1つだ。

人の縁とか恩とか、それこそお金とかもそうやと思うんですけど、受け取ってもそれを潰しちゃう人ってやっぱり続かないじゃないですか?。その受け取った縁とか恩とかお金とかを周して循環させた結果、自分のところに帰ってくる。そうやって少しずつ、自分の出来ることが増えていく。僕自身がそうやってきたからそう思ってるだけっていうのもあるとは思うけど、例えそうじゃなくてもそうあるべきなんじゃないかとは思うんですよね。

人から貰った縁を繋ぎ続けた結果、延命寺氏は今まで誰も到達し得なかった場所にまで到達しようとしている。

ドラマー、シンバルメーカー、アクセサリーデザイナー、その三足の草鞋を履きこなし、日々様々なものを創造し続ける生粋のアーティストとも言える延命寺氏だが、彼が今、目指す場所は果たしてどこなのだろうか?。

"本物の唯一無二"ですかね。"唯一無二"ってバンドでもプレイヤーでもめちゃくちゃ使われる表現じゃないですか?。でもなかなか本当に唯一無二な奴っておらんっていうか。「それ言い出したら皆んな唯一無二やん!」みたいな感じやし。そうじゃなくて、もう"圧倒的に変"というか(笑)。「何でそんなところでそんな事してんの?」っていうところにまで行きたい。色々な人達が「これからどうなっていくか楽しみ」って言ってくれるし、自分自身も楽しみやし。周りの期待に答えたい気持ちもないわけではないけど、自分のやりたい事を突き詰めてやっていきたいし、やっていくべきやとも思う。僕、他人からもそうやって言われるんですけど、"自分側に興味が向いてる人間"やと思うんです。今ってすごい、YouTubeにしろSNSにしろちょっと開けばすぐに凄い人とかお金持ちがおってみたいな、周りと自分を比べてしまうような環境がある。でも、そこと比較してる限り永遠に幸せにはなれへんのやろうなとは思ってて。戦うべきは自分でしかないというか、他と比べて「あいつよりこうだからイケてる!」みたいなのは、何と言ったら良いのか、、「凄い儚いな」って思う。それって凄い流動的やし、そうじゃなくって自分が思ってる理想みたいなのをちゃんと実現するために、今自分がすべき事だとか、今自分の中にあるものが何なのかとか、そういう自分の持ってる"手札"を見つける事が大事なのかなって。でも、自分もやっとこの年になってそれが分かってきたし、周りと比較するのも大事やけど、それよりもやっぱり自分の中身をもっとちゃんと知るべきというか、自分の中にあるものをどうアウトプットしていくかを知る事が、アーティストにとっては凄い大事なんちゃうかなとは思ってますね。

延命寺氏の活躍には、今後ますます目が離せなくなりそうな予感がしている。

延命寺氏が今後切り開いていく道は、国内ドラム界の未来でもあるのではないかと、割と当たり前かつ真剣に考えてしまう。

彼が"本物の唯一無二"な存在になる時、恐らく国内ドラム界のスタンダードは全て打ち壊されるだろう。

その新しい世界を、自分は早く見たくて仕方がない。

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あとがき

とにかく記事をまとめるのが大変だったというのが、延命寺さん回の特徴でした。

ドラマーである延命寺さんと、シンバルメーカーである延命寺さん、どちらの側面からも迫っていかないと当たり前ですが今回の記事は成立しません。

その上で色々な場所で活動していたり、アクセサリー作りも行っているなど、多彩な才能を活かしている延命寺さんの事を書くのは" 何を書かないか"の選択が非常に難しく、珍しく数日間考え込んでしまったりもして、、。

もう、それだけ延命寺さんという人の多様性というか、アクティブさは物凄いなと心底感じました。

色々な物事が実現できたのは、全ては"縁"であると延命寺さんは記事中で仰ってましたが、その"縁"を、彼は自分自身でしっかりと掴みに行っているんですよね。

「やってみたくてやってみたけど、何か面倒くさくて辞めちゃった」みたいな事をやっちゃう人って意外と多い。

でも、そんな事を一切感じさせないくらいに延命寺さんは自分がやりたい事に対して実直で、それをしっかりと目に見える形にして世の中に提示している。

本記事中には載せなかったんですが、延命寺さんはこんな事も仰ってました。

僕はとりあえず「それ面白そう!よし、やってみよう!」みたいなタイプで(笑)。もちろん、やってみた結果「うわぁ、全然ちゃうかった」みたいな事もあるし、やったことがきっかけで全然違うところに繋がったみたいな事もあるけど、結局は「やるしかないよな」って思う。だから"決断"していく。最近僕は"完成させる"って言うんですけど、演奏で言ったらスタジオで演ってる時は未完成で、人前で演った時に一旦それで完成される。そこまで行かへんのやったら、あんま演ってる意味無いんちゃうかなとも思うし、1個1個をちゃんと完成させて、それを自分にも他の人にも観せて、「次の完成はこうしよう」って進めていけるかが大事だよなって思います。変に完璧主義になって「作り込んでからじゃないと出したくない」みたいな人っていっぱいいると思うんですけど、そうじゃなくて、そん時に出したもんがそん時の"完成"やから、それを出さないのは"未完"のまま終わってしまう。それが100%意味ないとは言わへんけど、それよりも完成させた方が「次はこうしよう」って言うのが見えてくると思うんで、「失敗するのが嫌」とか「こう思われるのが嫌」とか、もちろん僕もそういうのはあるけど、とりあえず今出来る事をちゃんとやって、完成させる事の方が大事かなって思いますね。

結局、物事ってこれの連続なのだと思います。

納得いかなくても、「もっと出来たはず!」と感じても、とりあえず完成させて世に出すこと。

これが大事で、そこから得たフィードバックで人は成長して、それが新しい"ご縁"を繋いでいくためには必要な事なのだと思います。

"完成させること"、それを今後も常に意識して、激人探訪の執筆を続けていきたいですね

旧友であるSHOZOが繋いでくれた延命寺さんとのご縁、とりあえず一旦は自分なりに完成させました。

あとはまあ、成るようになるということで(笑)。

大阪にお住まいな事もあり、今回はオンラインでの取材だったので、延命寺さんとは近いうち是非直接会ってじっくりとお話しさせて頂きたいです。

その時が来るのを楽しみに待ってます。

2021/8/15 YU-TO SUGANO

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