死を想う2

「昨日の私」は生き続けているのか?

 日頃、死について考えていることを、ゆるゆると書いていきます。
 今回は、「生の中の死」について。

 河合隼雄の『生と死の接点』という本を読み始めました。
 5歳のときから既に死の恐怖を感じており、「そんなことを考えている自分がそもそもいなくなってしまう」ということに不安を抱いていた。そんな河合隼雄の著作には、老いや死に関するものが多数あります。
 まだ本当に最初の方しか読んでいませんが、気になった言葉があります。

「……人生の転機には、死のイメージが活性化されるように思う。人生のカーブは直線的に連続的に描かれるものではなく、時には非連続かと思われるほどの質的な変化が生じるときがある。そのような変化を端的に示すイメージとして、死と再生、ということがある。大きい変化の背後に常に死のイメージがはたらくのもこのためであると思われる。」(p. vi,vii)

 以前、今から終活を始めようということで、生前整理を行ったことがありました。

20代から「終活」始めます【生前整理編】|死を想う|note(ノート)
https://note.mu/yu_mori/n/na94ba8b73a92

 そこで、昔自分が書いた作文や、昔撮った写真なども整理したのですが、どれを見ても全く記憶がない。小学1年生のときに書いた作文など、何を言いたいのか理解できない。写真に写っている私も、現在の私とは全くの別物。性格や感じ方も今と全く違うように思う。これは、本当に私なのか……?

 私は、よくこのような疑問にぶつかります。過去の自分と今の自分は、本当に繋がっているのか? 小学生の時に毎日公園で遊んでいたときの自分は、外出が嫌いになった現在でも、生きていると言えるのか? 過去の自分はもう、既に死んでいるのではないか……?
 もっと言えば、昨日の自分と今日の自分が、本当に同じであると言えるのか? 出来事はとんどん忘れていくし、細胞も新しく生まれ変わっている。「私」って何だろう? 私は生き続けているのではなく、常に死んでいて、常に生まれているのではないだろうか。

 ちょっと哲学的になってきましたが、「私は常に死んで生まれている」と考えると、死への恐怖が少し軽減される気がします。私はもう既に、むしろ常に、ある種の死を経験している。そして、そのことで特に苦しみを感じていない。

 でも、それはあくまで「そんな気がする」というだけで、小学生の頃の自分がもう居ないということと、私の死とは別の問題です。私は1回も、「自分が死んだ」と思ったことはないし(実際死ぬときに死を実感するのかどうかは分からないのですが)、昔の私と今の私は、徐々に変化したのであって断続する実感を得たことはないし、私には多くはありませんが過去の記憶があります。だから、「私はもう既に死んでいるのだから、死ぬのは怖くない!」ということには、ならないのではないかと思います。多少の慰めにはなりますが……。

 私が私であると変わらず自覚していること、それが本当の「死」と私が生きている中で思う「死んでいるのではないか」という状態の差ではないかと思っています。
 じゃあ、記憶を喪失したら、生きていると言えるのか? など難しい問題がまだまだ出てきますが、今回はこれくらいで終わりにしたいと思います。

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