死を想う2

リビング・ウィル、書けない……!

  日頃、死について考えていることを、ゆるゆると考えていきます。
 今回は、リビング・ウィルについて。

 何となくネットを見ていたとき、リビング・ウィルという言葉を見つけました。あまり聞いたことがなかったので、ちょっと調べてみました。ざっくり言うと、認知症などで意思表示ができなくなる場面を想定して、その前に終末期の医療に対する希望を表明するもののようです。日本語にすると、生前意思でしょうか。

 日頃死について考えている私ですが、その内容は「死ぬとはどういうことか」とか、「どうやったら死の恐怖を軽減できるか」というものが多く、具体的に「こうなった場合はこうしたい」などと考えることは、あまりありません。具体的にイメージした自分の死を受け入れることができず、考えないようにして、ふわふわと哲学的なことを考えることが多いです。自分の死に際と向き合うことは、相当な労力を要するように思います。

 延命治療を望むかどうかというのは、難しい問題です。エンディングノートを書いてみたときに、延命治療を望むかどうかも記そうと思いましたが、結局どうしたいのか意思決定ができませんでした。私は、どういう場合にどういう治療をすると、どういう効果が得られ、どういうリスクがあるのかをよく分かっていません。それに、私がそれを望むことで家族や医療者にどのような負担があるのかもよく分かっていません。

 きっと、周囲の人との関係や、私自身の身体の状況によって異なり、一概に「こういう場合はこう」などと言えないのだろうと思いますが、それでも、リビング・ウィルを残すなら、ある程度の知識が必要になると思います。リビング・ウィル作成の際には、「医療者やアドバイザーから十分な説明を受け、家族を含めた話し合いを繰り返していくことを推奨する」と書かれているのも、もっともだなぁと思います。

 今まで避けることが多かった死についての具体的な話ですが、これを機に少し考えてみたいと思います。とは言っても、「医療者の説明を受け、家族を含めた話し合いを繰り返してリビング・ウィルを作成する」というのは今の私にとってハードルが高いので、本を購入してみました。宮子あずさ『看護婦が見つめた人間が死ぬということ』。読み終わったら、また感想を書きたいと思います。

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