見出し画像

アロマンティック・アセクシュアルは愛情深い人でなければいけないのか?

 私は、アロマンティック・アセクシャル(他者に恋愛感情や性的欲求を抱かないセクシャリティ)を自認している。小さい頃から周りの友人の恋愛観が自分のそれとずれていることに違和感を感じていたが、大学生になってアロマンティック・アセクシュアルという名前をつけてもらい、自分のような人が沢山いることに安堵したものである。そして、より安心を得るために、アロマンティックやアセクシュアルの方のインタビュー記事やら動画やらをひたすら見まくった。見まくって残ったのは、惨めったらしさと焦燥感である。

 アロマンティックやアセクシュアルといったセクシャリティをメディアが取り上げるとき、その多くが「この人たちは他者に恋愛感情や性的欲求は抱かないが、家族や友人への深い愛情を持っている」というメッセージを提示しているような気がする。本人たちも、「私は人好きだ」「友人は多い方だ」と言って、アロマンティックやアセクシュアルが晒される「こいつらは愛情を持たない冷たい人間だ」という視線を見事に跳ね除けている。実際インタビューを受けている当事者の方々は気さくな方や人懐っこい笑顔を浮かべている方が多く、その言葉に嘘偽りはないのだろう。

 しかし、しかしである。それはその人たち個人の性格の話であって、アロマンティック・アセクシュアル=愛情深い人というメッセージを発信しようとしているのであれば、というよりむしろ愛情深い人であることを全面に押し出さなければこのセクシャリティを受け入れてもらえないのであれば、それは辛いし悲しい。私の場合は、メディアに露出している方々に比べて冷めていると感じている。アガペーのような高尚なものは持ち合わせていないし、人の好き嫌いもはっきりしてる。家族に深い愛情もなければ、仲の良い友人も数えるほどしかいない。私はいわゆる、「他人に愛情を注ぐことができない冷たい人」であり、それにセクシャリティを追加すれば「他者に愛情を注ぐことができない冷徹なアロマンティック・アセクシュアル」が出来上がる。どこぞの世間様が想像するアロマンティック・アセクシュアルは、私のような人間かもしれない。

 自分のセクシャリティに名前がついて喜んだのも束の間、その次に襲ってきたのは恋愛や友愛や性愛に限らず、他者というものに深い愛情を持てない自分に対する情けなさである。恋愛感情や他者への性欲を持たないならせめて、せめて友人や家族に深い愛情を注がねばならないと言われているような気がする。いや、そうしなければ他者に受け入れてもらえないのではないかと怯えている自分がいる。マジョリティから外れたセクシャリティに属しているにしても、表に出て活動している方々はマイノリティであることを差し置いてなお余りある魅力を兼ね備えている。何も持っていない私が他者に受け入れてもらう道は2つある。アガペーのような愛を他者に注ぐか、セクシャリティを変えるかだ。

 できる気がしない。でもやらなければならないという焦燥感。恋愛ができないからと言って、一人で生きていたいわけでもない。浅ましい承認欲求に追い立てられて、私は「普通」になりたいと願い、「普通」を演じようとする。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?