「ここでタバコを吸わないで」

 私がまだ小学校に上がる前の話。私と姉は、大嫌いな父に連れられて父の会社のイベントに来ていた。本当はどうしても行きたくなかったのだが、ついてきたら31アイスを買ってあげるという甘言に釣られてノコノコついて来たのである。

 しかし、待てど暮らせど父はアイスを買ってくれない。それどころか、約束なんかしていない、わがままを言うなとキレ始める始末。あまりのことに、それは信義則に反する、債務不履行だ!と言って齢4歳の幼気な少女:私が喚き散らしていると、それを見かねた父の同僚だと言う人が31アイスクリームに私たちを連れて行ってくれた。

 私と姉が同僚さんに買ってもらったアイスをテラス席で食べていると、父はテラスを少し出たところでタバコを吸い出した。テラス席は風下にあり、従ってそこにいるお客さんは皆、父のタバコの煙を被ることになる。まったく迷惑な人間だ、約束は破るしみんなが食べてるすぐそばでタバコを吸うなんて。そんなことを私は考えていたが、不思議なことに、周りの大人はあまりタバコの煙を気にしていない様子だった。普通にアイスを食べて、おしゃべりをして、ゴミを捨てて帰っていく。それがなんだか異様で、私には気持ち悪く思えてならなかった。

 そんな中、近くに座っていた男の子が声を上げた。

 「お母さん、ここタバコ臭い」

 男の子の声は大きく、そう広くはないテラス席の客は皆その声を聞いただろう。もちろん、少し離れたところにいた私の父も。
 男の子の母親は「そんなことを言わないの」と男の子を注意したが、男の子は「だって臭いんだもん」と言ってますます騒ぎ始める。そうなれば当然に他のお客さんの視線はその男の子と煙の元凶たる父に注がれる。父に注がれた視線は非難と嘲笑を孕んでいた。「あんな場所でタバコを吸うのは非常識」「男の子が可哀想」「マナーがなってない」とヒソヒソ声で喋る女子高生の声も私にははっきりと聞こえた。

 そんな雰囲気に、そうだよね、タバコが嫌なの私だけじゃないよね、と安堵したものの束の間、私はおかしなことに気づく。

 誰も直接は注意しないのである。店員も同僚さんも男の子の母親も、直接元凶のもとに行って「ここでタバコを吸わないで」と注意することはなかった。

 当時、私はなぜ誰も父を注意しないのかわからなかった。今となっては、見知らぬ大人を注意する人はそうそういないということもわかる。

 それに加えて、大人になった今、タバコの煙は周りが我慢するもの、という空気感もわかってきた。お酒の席にタバコは付き物、我慢できない方が子どもみたいな空気感。歩きタバコを注意したら何されるか分からない、嫌だったらこっちが場所を移動するしかないみたいな空気感。現在でさえ、こうなのだから昔はもっとその圧力が強かったのだろう。

 様々な自治体で路上喫煙の禁止や飲食店内の禁煙、分煙を義務付ける条例が制定され、公共の場での喫煙を堂々と正当化する人は減った気がする。しかし、依然として「我慢すべきは周り」という空気感も残っている。それがなんだって言うんだ。大人にだってあの男の子のように「臭い」と言っていいはずだ。健康に悪いからやめてくれと言っていいはずだ。マナー違反の喫煙者に対して、そう言える世の中であるべきだと、私は強く思う。

 

 

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