差別されないことに理由が必要なのか?

 大学の政治学の講義で、現在の日本における女性と男性の収入格差を皮切りに、女性解放運動の歴史がテーマとして扱われた。その講義の内容に全く不満はなかったのだが、講義の最後、教授が学生に向けて発した問いに、私はどう答えていいかわからなかった。

「女性は差別されていいと思いますか?理由もあわせて記入してください」

 私の大学では、授業の最後にリアクションペーパーを提出して出席したことになる。A5サイズの紙に授業の感想や質問を記入するのだ。政治学の先生は、いつも授業の最後に問を投げかけ、その回答を学生が記入する形式をとっていた。 
 私は、女性が差別されていいとは思わない。でも、何故差別してはいけないのかなんて考えたこともなかった。男性も女性も同じ人間だから?女性にも自分らしく生きる権利があるから?そんな理由が思い浮かんだが、生きとし生ける人間全てに人権があるなんて当然で、そんな当たり前のことを今この紙に書くのは馬鹿げているように思えた。だからといって、女性の社会進出が進まないことで日本経済が不利益を被っているとか、国際社会の風潮に逆行しているなんて理由も、被差別者を置いてけぼりにしているから、なんだかしっくりこない。そもそもこの問い自体なんだかしっくりこない。言葉の意味はわかるけど、何を聞かれているのかが私にはよくわからなかった。

 結局授業時間内には答えが出ず、リアクションペーパーは「女性は差別されるべきではない」とだけ記入して提出した。そしてその後も一人で悶々と考えた。考えて考えてようやく、「この問いが発せられること自体が、男女が対等に扱われていないことの証左なのだ」という結論に至った

 「全ての人に同等の人権が付与され、性別に関わらず皆がその能力に応じて等しく機会を得ることができる社会」という前提は、この問いには存在しない。現に日本社会がそうはなっていないからだ。

 社会に存在するのは性別による「区別」ではない。性別を男性と女性に二分し、男性が「上」、女性が「下」と認識する「構造」が存在し、それが差別を生んでいる。ならば、この「構造」を壊せるだけの論拠を持ってこないといけない。その論拠がなければ、「どうして女性を差別してはいけないのか」を説明できない。重要なのは、女性が「下」から男性のいる「上」に上がることを許しても差別は解消されず、「構造」を破壊することが重要だということだ。

 そのために、私は「人権の共有主体は男性だけではない。女性にも等しく人権がある」という前提をあえて明記した上で、「女性は男性の従物ではない」「性別のみを理由として女性から機会を奪うのは不当である」「女性を女性という全体像で捉えるのは個人の人格を軽視している」と主張しよう。

 「女性差別」という構造が残っている以上、求めるべきは「差別されない理由」「差別してはいけない理由」ではなく、「構造を打開すべき理由」だ。この私の辿り着いた結論に照らせば、「差別がいけない理由を問われる」ことがしっくりこなかったのにも頷ける。

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