43回目のこんにちは

今から43年前の今日、この世に生を受けた。

1976年2月6日。この日は往年のプロレスファンなら、何かしらの記憶や知識をお持ちであろう。

「燃える闘魂」アントニオ猪木が、ミュンヘンオリンピックで2階級制覇を成し遂げた、「赤鬼」ことウィリアム・ルスカが「格闘技世界一決定戦」と称し、異種格闘技戦を行ったその日が、自分の誕生日だ。

チョークスリーパーならぬ、臍の緒が首に絡まり、軽く死にかけていたが、かろうじて一命を取り留めた…らしい(さすがにそんな記憶は残ってないしね)。

ぶっちゃけ、子供の頃の記憶は殆どない。
幼稚園の頃から、既に周りとうまく馴染めず、体も小さかったことから、いじめられるターゲットにされていたので、あまり楽しい思い出がないからだと推測している。

そのくせ、正義感だけは無駄に強かった。そしてマジメだった。
父親が警察官だったこと、そして特撮ヒーローが好きだったことが影響していたのだろう。

当時放送されていた「バトルフィーバーJ」のバトルケニアに憧れて、卒園文集にあった「将来なりたいもの」の項に、

「やせいのせんしになりたい」

と記した。

実際は先生にヒアリングを受け、書いてもらったのだが、何度も「野球の選手、じゃなくて??」と聞き返されたのは、妙に覚えている。

あと、本が好きだった。ヒマさえあれば本を読んでいた。
部屋が明るくても暗くてもお構いなし。そんなことをしていたから、小学校に入ってすぐ、眼鏡の世話になる羽目に。

その頃、「宇宙刑事ギャバン」「キン肉マン」、そして「ファミリーコンピュータ」という、ある意味自分の趣味嗜好を形成したコンテンツとの出会いを経験。

小学校中学年のとき、夏休みに父方の実家に預けられ、祖母の料理やお菓子をモリモリ食べる生活を続けた結果、夏休みが終わる頃には、久々に顔を合わせた両親が「何があった!?」と驚く程太ってしまった。

これが運動神経の悪さに拍車をかけ、唯一人並みにできるのは、ダイエットのために通わされた水泳くらい(それでも全然痩せなかったが)。

その頃から、絵を描くことに目覚め、つたない画力と知識、そして構成力でマンガ(といっても、ノートに書いた、ペン入れもしていないレベルのもの)を描いたりした。

中学に進学し、校内の部活動説明会で聞いた吹奏楽部の演奏に衝撃を受け、楽器経験ゼロにも関わらず入部を即決。
 
与えられた楽器はトロンボーン。
その後、父の仕事の都合ですぐ引っ越しをすることになったが、転校先にも幸い吹奏楽部があり、引き続きトロンボーンを任せてもらうことができた。

しかし、転校した地域が、かなり治安の悪い場所で、しかも当時のクラス担任に監禁され、「クラスを代表して生活委員長(いわゆる風紀委員長)に立候補しろ」、と数時間にわたり説得…いや、強要され、泣く泣く選挙戦に出馬、その挙げ句当選という最悪の展開に。

治安の悪い地域なので、不良連中からは目の敵にされ、数々の嫌がらせ、暴行を受け、心身ともにボロボロ。

唯一の拠り所は、吹奏楽部だった。

夏休み期間中もほぼ毎日、年1回のコンクール目指し猛特訓の日々。
当時、吹奏楽部の同学年に男子が誰もおらず(入部当初はもう1人いたが、不良になりフェードアウト)、そんな環境で部活動をしていたためか、今でも女性の輪の中に混じって話をしたりするのが割と苦にならない………モテるかどうかは別として。

初めて女性に恋をしたのもこの頃だ。
お互いアニメが好きで、話も合うし、楽器のパートも同じ金管楽器(その子はユーフォニアム担当)だったので、割と一緒にいることも多かった。

ただ、その子が自分のことをどう思っているかを聞く勇気はなかった。
そして卒業にあわせ、男子校に進学と引っ越しをすることになったため、遠く離れることに。

ちなみにその子は、長い髪をポニーテールにして、眼鏡をかけていた。
たぶんそれをこじらせて、眼鏡っ子好きになったんだろーなぁ。

(続………く?)

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