「チヒロと恋の神さま」(掌篇)


 ある日チヒロは、新書サイズの包装紙を破った。
 べつに注文していた文庫本の包みといっしょに。中身は新種の神さまの種だった。新種の神さまの種は、一年みず遣りを怠らないで気温にまかせ、陽の光にさえ任せていれば、春には立派な神さまの実を実らせるというものだった。
 楽しい一年を過ごすあいだに、チヒロはふたつのアルバイトをやめ、一度は男性と別れたのだけれど、それはまたあたらしく恋を始めようとしている頃だった。
……プチトマトでも、大蒜の芽でもないもの。
 と悦ばしげにチヒロは問題を出した。
「もちろん朝顔の花なんかでもないもの」
「じゃあ、きゅうりとか?」
「ブー」
「なら果物だ」
「…ブー。か、どうかはよく分かんないんだけど。これには新種の神さまの実がなるの。たぶん、きっと五月には。だからお家にまた来てくれる?」
 と彼女は訊いた。
 そして、春かぜを残し、でも三度目の真夏日を記録したとある週末ことだ。
 無事恋人になってくれた彼を招くと、肌を見せるより先に、チヒロはベランダで立派な実をつけた神さまを紹介してあげた。
「こんにちは。神さま」
「ああ、こんにちは。彼は?」
「戸原くん。ちゃんと挨拶をして」
 とチヒロはいった。
「戸原です。戸原亮治」と彼、
「こんにちは。彼女をよろしく」
 と、こたえる神さま。
 その内心を読みとれてはいたが、うすい葉にまでみずを遣り、大かぜで乱れた神さまの身なりを整えてあげてから、チヒロは笑顔でカーテンをとじた。
 まだ夕方の落ちるまえだった。
 やがて未明の時刻、揺れたカーテンのすき間から、彼女は月と照らされていく神さまとをそっと見遣る。彼は哀しく微笑んでいた。思い通りに目を反らし、でもほっと安堵してしまうみたいに。まったくそれは、新しい神さまだった。彼とはいずれ別れもするけれど、神さまと別れることはおそらくない。それは愛にとって重要なことだ。
 窓を開けずに、チヒロは神さまの姿をしばらく眺めた。
 凛とした葉脈、透き通ったその草のいろ。翌朝、彼が部屋を出て行ってからキスをしてあげた。ちょうど姿見に映されながら。戸原くんはすてきな男性だった。そのことを話すと神さまは拗ね、ふたたび月が照らし出してくれるまでのあいだ、愛おしく彼女と口をきくのを我慢している。

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