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「祝福セゾン」


 父は金曜日にうまれたが為に、厳格な人だった。
 小田舎ながらも旧家のうまれで、なに不自由なく裕福に育ったのだけれど、その生涯を勤勉であることにのみ捧げた。夜を徹して重たい本のページを繰り、夜を徹して勤め人にあるべき姿をまっとうした。実際のところ神経が細く、不安なきもちを押し留めることができなかったのかもしれない。おそらく一睡も得られなかったのであろう六月の朝、突如として厳格な父である足場をうしなって、居間に立ち竦んでいる姿を見たことがある。
 澱んだひとみで一点を見つめ、自己を引き戻す端緒をさぐっていた、のかもしれないし、もしかすると彼にも戻るべき一日というものがあったのかもしれない。
 そんな日の晩、母はその頬に痣をつくった。兄妹の背が柱にも刻まれなくなった頃には、兄もわたしも妹も頬に痣をつくった。苛立たしくて、馬鹿馬鹿しかった。父はその年代の割りにずいぶんと立派な体躯をしており、結局兄妹の誰もがその背に達することはなく、厳格な振る舞いが止むこともなかった。わたしと妹は反発し、兄は従い、母はそのすべてに同情していた。
「哀しい人なのよ」
 とまではいわないにしても。
 許してあげて、とその目が執拗に語りかける。
 どこに、そうするべき点があるのかを母が教えてくれることはなかった。が、ともかく、彼女は父に同情をしていた。亡き祖父の教えで、男は国立大学へ通い、女は中学を出たら留学するという決まりだった。
「いつかアメリカで入学したときにな」
 わたしがものを欲しがったとき、これは好んで使われた台詞である。父も、その姉妹もそうやって育てられたのだ。中学に電車で通うようになると、週に二度、英会話の教師が家に来る。若くて、ハンサムな人だった。二年、一年とその日が近づくにつれ、わたしも妹もさめざめと泣いた。やはり、家を出ることは恐ろしかったのだ。いざ振り返ってみるとアメリカにいい思い出はあまりない。日々勉強は辛く、食事が口に合うことはなかった。恋をし、ふとらないように昼食を抜いた。パーティに行って騒ぐ日もあった。年に二度、母はうみを越えてやって来て、その後ろには父の姿があった。いつもと変わらない背広姿で、でもどこかしら所在なさげに、席に収まると下手くそにわらった。
 日本の大学に通う為に帰国してからというもの、父が手をあげることはなかった。
 その代わりといってはなんだが、少しずつ言動は覚束なくなっていた。朝にも、夜にも、足場をうしなっている姿をたびたび見かけた。きっと身動きがとれなかったのであろう、澱んだひとみで一点を見つめ、裸足の脛が細かった。つやのある髪はまだ黒かったけど、不安げに吐息を押し殺していた。その実がどんなものかはわからなかったが、見ていると直ちに心臓が冷えた。父は、母を愛していた。だから、戻るべき一日があったとしても、精神がその場を離れられない。ただ言動だけが毀れていき、定年するときまではどうにか勤めあげたものの、ずぶりと心の不可侵な領域にまで沈みこんでしまった彼は、ことばと目のいろと厳格さを奪われて寝たままの十年をやがては終える。
 すでに妹も、兄も家を出て行った。離れがあり、兄が住むはずであった別棟をからっぽにしたままの大きな家で、過ごした十年は入学式の一日のようだ。
 そらは青く、過去とも未来とも切り離されたようで。
 父はわたしとうみに隔てられて以来、酒とバイクをやめたのだそうだ。その意味もよくわからない。兄と妹が結婚し、病院で五人の孫に囲まれて彼は逝った。訳もわからないでこどもたちは泣いたし、兄の奥深くから溢れた嗚咽は今も耳の底でうず巻いている。が、姉妹で水曜日にうまれた為か、さいごのときまで、わたしたちから父への警戒心が抜けることはなかった。

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