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「追跡セゾン」


 見つけた。彼は自室の窓をとじ、息を整える。寝巻き同然の恰好をしたままで、手もとには飲みかけのマグカップがあった。それを文机の隅に置き、窓ぎわで乾涸びていた番いの靴したを掴みあげると、カーテンのすき間から今一度覗いた。
 花のようにおおらかな太陽が出ていた。
 かぜは強く、それがたんぽぽの綿毛を振り乱していく。日差しはいくらか傾いていて、道ばたに自転車が停まっていた。その車体には名札が貼られているものの、書きこまれた字までを確認はできない。少女がいて、フリルのついたお洋服を着ていた。その娘が犬を連れ、曲がり角を折れると見えなくなった。
 赤くて匂い立つような夕方だった。その奥で暮れ泥んでいく、偽の西日にのしかかれたあたりを、彼は片目の遠望ルーペでたしかに捉えた。
 その人は肩にラジヲを担いでおり、ゾウのように動きが重かった。
 走れば十分に追いつける距離だ。カーテンをとじ、うわ掛けを羽織った。おもては早春の寒さがもどっているという。念のために帽子を目深に被った。持ちものを内ポケットにいくつか突っ込み、すると慌てていたせいか、靴したを履く際に尻もちをついた。
「…父さん、すこし出てくるけど」
 と彼は間ぎわに立ち寄って、いう。
「小一時間でもどれると思う」
 父はうなづくでもなく肯定を示した。
「アップルジュースが冷えているからね」
 枕もとの吸飲みを爪で弾き、その位置を伝えた。
 それというのは、あまり余裕ある持ち時間とはいえなかった。画の飾られている階段を彼は急ぎ足で下る。姉に連絡するべきだろうか。しかし、それもあの背なかを捉えてからにしなくてはならない。小走りにいって、角を曲がった。後ろ姿に並んでは顔を覗きこみ、また次の後ろ姿の横に並ぶ。
 …ひとり、…またひとり、というくり返しには手ごたえがあった。
 けれど生半には成果があがらず、タワービルに西日を砕かれ、そこに紺いろが足されていくたび、気ばかりが急いてしまうのを彼は感じた。足を止めると、さきほどいた少女を見つけた。彼女は犬と交渉中であり、しゃがみこむ細い足首に、願いを掛けたミサンガがきつく縛られていた。
 顔をこそ見知ってはいないのだが、そのときが来ればわかるはずだよ。
 姉はそういい、今朝も彼の頭をなでてくれた。それから、肌を、特別なところを。姉は彼よりもずっと訓練されていて、能に秀でた人だった。
「…大丈夫」
 声はやさしく、蜜が溶かれていて甘い。
「きみには時間が足りていないだけだよ」
 それは毎朝、それも早朝のことであり、ふた掴みの勇気を付与した後に、その指でひと触れされてしまうと、身のうちをするどい戦慄が走った。
 失敗は、即、その行為への裏切りととられても仕方なかった。
 うず、うずと達成へむけた欲と希望に、こころの大部分を占められていく。
 そのとき、彼は腕時計を外したのだった。ノ坪という街は、住宅のすき間に公園が多く、そこまでに勝負をつけなくては。なにせ相手は、肩にラジヲを担いでいるのだ。そう遠くにいるとは考えられず、ひとり、またひとりと後ろ姿に並んでは覗き、また次の後ろ姿に並んでは振り返って顔を覗いた。
 やがて、
「…神さま」
 首もとのチャームを握りしめ、
「ぼくに力を下さい」
 その公園で彼は立ち止まった。
 ベンチの脇にラジヲが置かれ、周囲の様子から鑑みるに、相手はお花積みに入っていることがわかった。つまり、すでに投了の図までが描かれたという訳だ。大振りなラジヲにどっかと坐り、ときを過ごした。
 公園にはいくつもの遊具があった。
 そこを燥ぎまわるこどもたちがあり、ベンチで湯を飲む老人があり、たんぽぽと柿の木があって、やはりタワービルに砕かれた西日に、秒を読まれようした寸前のところでかぜが動いた。
 さきの尖った紙飛行機が、その背に乗って彼へまで届いた。
 ツト、とそれは足もとに落ちる。折り目に沿って丁寧に開くあいだ、さまざまな思いが胸を過った。元にもどされたその一枚は、もう一枚のちいさな紙片を含んでいた。おそる、おそるのきもちでそれをめくると、裏面に銀が貼られたオモテに、司令塔の合図を待て。と見慣れたインク字で示されていた。
 それは追跡の終了を意味していた。
 期待半分、失望半分といったところだった。が、正直なところ、彼はがっくり項垂れてしまった。
 保留であり、これをおそらく、成功と呼ぶことはできそうにもない。その足で事務室の戸を叩き、受付女を伺うと、でもその表情は芳しいものであるらしかった。
「…お疲れさま」
 いって、ざばっ、と玉を掻き入れる。
「大成功、だね。これ」
 と大きめの袋でそれをくれた。
「室長さんから、約束のものをきみに、って」
 受けとる手にはちからが入り、すこしだけふるえた。
 久しぶりにすてきな夕方になった。
 そして、伏目がちにうれしさを噛み締めながら、差しだしたスタンプカードには花まるを貰い、持ち時間ちょうどで彼は家族のいるところにもどった。

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