「晴れの一日」(掌篇)


 盛大で華やかな一日だった。
 とはいえ、紳士服を着ているのは若いバーテンダーの子だけだったが、肩を組んだり、肌けたり、訳もなく大勢が騒いでいた。
 のら猫は恍惚として顔を洗い、たんぽぽが花を閉じていた。そこら中でイモリが愛を交わし、それを横目に通り過ぎていくのは、川からあがってきたばかりの沢蟹だった。幅一メートルもありそうな藁帽子を被ったご夫人がいた。きっと伊勢丹主義者なのだろう、妙なるお草履を突っかけていた。その足もとをすばやく風が抜け、しこたま笑いのめされた道化師が、虚しくなって泣いていた。どこにも花嫁がいないのに、ウエディング・ベル紛いの打ち鐘が、わたしたちの耳には烈し過ぎた。
 梵鐘を突くのは見慣れない男で、遠目には片腕が二本ずつあった。的屋の隅に外務省あがりの金満家がおり、当たり屋の少女に捕まっていた。
 少女はロマンスを売る女神だった。
 他にも性に旺盛なピクシーが葉叢を賑やかしていたし、若い娘たちも、痛風持ちも、きょうばかりは糖質がオンになっていた。蛙が涙し、岩燕が低く飛んでいた。飛び疲れた蝶々たちの鳴き声につつまれ、男どもは肩を寄せあい、失われた恋について語った。
「ねえ。本当に大丈夫?」
 わたしが訊くと、
「もういい加減しつこいよ」
 と彼女はこたえた。
 なにしろ心配になるほどの飲みようなのだ。それか薬液を瓶に注ぎこむときのように、得体の知れない混合物がぐんぐんと胃に押しこまれていく。
 すでに歩き疲れてしまったので、ふたりはもぐり酒場で休んでいた。酸素がうすれ、澱んでいた。ものおもいに飽きた男たちが、カードをめくるたび荒ぶっているが、喧嘩と賭博は禁止されていた。女漁りだけはご法度だった。バーテンの男の子は髭を生やし、神さまに怨念を送っていた。
 その日カサブランカは、四年に一度の祝い日だった。塔の広場を開け放つのだ。頑丈な門扉に固くまもられ、遠巻きに拝まれるばかりの塔のお庭は、さまざまな落としもので溢れ返っていた。枯れた花とか、女物のハンカチであるとか。もしくは生活からあぶれた些末なものを、これでもかとばかりに散らかした広場に、立ち入れるのは清らかな小鳥たちだけだった。煉瓦いろの塔が反りたっていた。そらの半分ほどの高さを持ち、石塔には出口も入り口もなかった。
 その塔のてっぺんで、ちっぽけなお印がはためいていた。図柄をたわませ、その部分だけを青く濡らして。四年に一度、塔の一族はそこへのぼると、お印をあたらしくとり替えた。その人が本日の主役であり、それが祭りの佳境だった。
 しかし、誰もが大団円を迎えるときを恐れ、遠ざけるために笑っていた。こどもたちは路ばたで口づけを交わし、それに飽きると、蟻の巣に爆竹を刺してマッチを点した。
 紙で出来た龍が煙りを吐き散らしており、赤くて、鉄臭かった。
 司祭とズールー人が道を歩いていた。
 仲睦まじく、熱く語って。彼らはもぐり酒場の常連で、音楽家だった。待てど暮らせど一向に弾かず、楽器を抱え、どう楽しんだものか考えていた。弾いても弾かなくてもいいらしかった。主役だけが訪れなかった。けれども誰ひとりとして待ちくたびれる様子がなく、出店ではコップ酒が飛ぶように売れた。
「酔い潰れたって知らないよ」
「…ところで、なんでご機嫌斜めなの?」
「やめてってば」
 とつい打ち払ってしまった細腕に、じっと俯いて視線を落とす。
 それらのすべてに耳を澄まし、瞳には収めるつもりのない人たちがいた。
 彼らは農場の大邸宅で、一歩も外に出ずに暮らしていた。八人で、心がひとつだった。ひとり残らず芸術家で、ひとり残らず醜かった。ただ魂は研磨されていて美しく、雨蛙の胃のように穢れがないので、室内でなにごともなく一生を過ごした。
 耳だけが外の様子を知る手段だった。目を閉じ、彼らはそれをぴんと尖らす。次第に睡たくなってくる。表を走り過ぎていく車輪の数を、音を頼りに数えられるだけ数えていた。千を越えると、彼らは数字を用いずに観念で数えた。すべては抜かりなく進行していた。しろと、茶いろ模様をした猫たちが、逆さまに天井を歩いていた。尾っぽが輪になって閉じていた。なぞを解くのが好きだったためか、八グラムのはてなをたくさん浮かべた。猫たちと彼らは友達だった。八匹いて、仔を産み落とすたび親は死ぬ。彼らは目を閉じ、わずかな物音に執着しながら、片手間に菓子をたべていた。プレーン味の、未来では常食されているものだった。甘さが足りず、美味くはないが、それは穀物の味がした。昔に比べて、農場主からはいくぶん豊かさが剥ぎとられたにしても、彼らを生かしておくことくらい、物の数ではなかった。月が歪み、くらい星ぼしが瞬いたことも、八人は聴力で知ることができた。遠くの密林で、南天があかい実をつけていた。塔守りの娘が、傲然と不機嫌さを極めていた。ズールー人が弾く曲を決め兼ねていた。当然、となりにいるのは禿頭の司祭で、同じことをしていた。盛大で、あまりにも馬鹿ばかしかった。筆を手にとり、石材を抱き、五線譜で彼らは鼻をかんだ。これもだれかしらかにいただいたものだが、花の粉を吸入し過ぎたために、四六時中鼻水は止むことがない。
 それでも八人で紙片を開き、猫となぞ解きのつづきを楽しんでいた。くしゃくしゃの軍票を握りしめた老人が、ひび割れた手で濁酒のカップを傾けていた。キスや、ハグが雨のように降っていた。わたしたちは細いスツールを下り、分類でいえば、女は鳥で、男はこうもりの仲間だから。と、侯爵が少年を口説いていた。飛び交うのは複雑なラジオ波だった。聖器係りに雇われた男が、酔いつぶれて虹を描いていた。法衣に火のついたべつの司祭が、立つべき場所を見失ったまま、説教の文句を吐き漏らしていた。まだ星のある朝だというのに、機関銃を掃射するような轟きだった。廃遊園から持ち出してきたのか、朽ち果てたメリーゴーラウンドが明滅しており、よくきけば知っている馬がないので、彼らは天国にのぼったのかもしれない。
 馬たち用の特別な天国では、絶えず音楽が鳴っていた。そして常時、雨が降っていた。すべてを清く還元してくれるハロゲン雲を浴び、香ばしい草と恍惚とを食む。
 海を泳ぎ、貝をたべることもあったが、それは白ワインのような味だった。そこには千を超える概念がなく、憂慮するべき事項がなかった。雨蛙が立派な鳴き袋を充たし、ココ椰子の葉からしずくが落ちる。今は存在しない気団に乗って、魔女がユーミンを流していた。そのすこし後ろの方で、筋肉質な赤いマントが、悪人でなく恋を追っていた。十分な満足を得た青鷺が、ラジオをきくように死んでいた。やがて馬たちは細くいななき、二億年を越えると、塔にその雨を送り届けた。それはカサブランカの祭りを台無しにするためでなく、ちょっぴりの悪戯をしたつもりだった。
 彼らが次元に開けた孔を、風が抜け、雨と音楽が通過していた。ききとれないほど微小でも、耳を澄ませばささやかにわかる。孔には種も仕掛けもなく、手のうちに握ると簡単に消えた。その奥は存外に平板で、茫洋としており、息ができなくなるような、執拗なピンクが澱みながらも犇めいていく。
 気がつくと、酔い覚ましに歩いてきた馬場で、彼女はふとったポニーを眺めていた。馬という馬を愛しているのだ。耳に口をつけ、ささやいてあげる。あの馬たちは、目の前にいる仔馬とはぜんぜん違った。豊かなたてがみが生い茂っており、宇宙じみていて、脳がなかった。瞳は青くて、うるんでいた。しずかで、すべてが充たされいた。国道の方では、無用な図体をひきずって、タコメーターが咽び泣いていた。彼方のそらにUFOが見え、月の表裏が逆になっているのが見えた。
 火の毒を持つ凶悪な蟻が、雨の気配に慄いていた。
 蟻でなくとも匂いでわかるが、誰ひとりとして気にしなかった。大勢が集まり、騒いでいた。ピクシーが虫に刺されて軟膏箱をあけていた。若い娘たちは無尽蔵にたべた。うつくしい裸の上半身を彼女が見ていた。絵に描かれすぎたおかげで腐敗したりんごが、窓べでひどく爛れていた。浮気された夫が樹と話していた。浮気してしまった妻が涙をながし、片手で首かざりの鎖をもてあそんでいた。すると、
「そろそろ行こっか」
 なんて幼気に誘われ、
「きょうはまだまだ、これからだしね」
 と裏ぶれた路地の階段で、わたしは長いキスをせがんだ。
 壺焼き師の女将が、そらを眺めながら壺に焼きを入れていた。
 八人はぜんぶきいていた。うれしそうに、でも口もとを曲げて。当たり屋の少女と手を繋ぎ、青年が石ころを買わされていた。元手が掛からないので、商売は大成功だった。編み笠を被った中年男が、ひどく滑らかにダンスしていた。着実に重たい低気圧は近いづていたが、夕焼けがきれいだった。
 メトロン星人でもないのに、嗅ぎ慣れない煙草をふかす男がいた。彼は暑さにも寒さにも弱かった。そのせいで、いつまでもとなりで立ち竦んでおり、そんなの、古代人の恋の仕方じゃん。と気にしないで彼女が熱くささやく。
 なんにしても、それは喜ぶべき祭りの一日だった。とくに理由があってのことではないが、いつになく八人は淋しかった。ようやくたべ終えた最後のレーションは、だれかしらからの贈りものだった。とっておきのレコードを一枚かけた。服の襟を整え、八人が一斉に立ちあがった。背丈の具合はまちまちで、あまり絵になりはしないだろうが、不慣れな姿勢で顔を見あわせ、咀嚼を止め、チューリップの花からとった粉を吸って、彼らは金のタンバリンを鳴らした。滴るような、実に特別なひびき方だった。八人は性に疎かったので、それ以上のことはなかったけれど、やさしく、愛を持って手をとりあうと、短くわらう。
 そして組になって身体を支えあい、ただうっとりと、ゆっくりと踊った。

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