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「鬼がいた公園」(掌篇)


 鬼がいて、駆けだす。彼にはもう光りがないのだ。身を打つことには慣れるしかなく、犬を蹴り、春かぜに怯えていた。何度もつまずき、ひざを汚し、走行停止中のボンネットに身体ごと乗りあげてうめいた。
 公園でその後ろ姿をこどもたちが見ていた。
 なかの多くは立ち止まり、ブランコの坐板に揺さぶられ、それか掴んだ母の袖を手放しながら。棒を携えた人たちが、全方位から俄に集まっていた。公園の隅では、弱気なぼくがかぜに戸惑っており、泣くつもりもないのに泣いていた。おそらくそれは、見た目にはヒトと変わりがないので、彼らが実際に鬼であるのか、ヒトであるのかあるいはメトロン星人かなにかであるかを判断する術を持たなかったためだし、いずれにせよわたしたちが、絶望的に理に疎かったためだ。けれど、そのしずくから奇跡を促すような効果は得られず、集まった人びとは仁心を含めて、届く範囲で棒を振るった。
 尻へ、わき腹へ。倒れてからは頸へ、後頭部へ、数多くの突きが見舞われて、びくりと呼吸膜をひき攣らせると、呪詛の念をまき散らすこともなく鬼は死んだ。
 この罪を血以外のもので洗い流すことはできなかった。
「…神さま」
 彼女はつぶやき、そして救いの字句を並べる。窓べに差しこんでいるのは、そらよりも青い宇宙線だった。礼拝室の鉄扉を後ろ手にとじ、坐りこむ。お湯を飲み、息を整えた。やがてマグカップをモルタルのかべに叩きつけた。そのかべには、あなたの大切なもの、わすれてますよ。と親しげなフォントの貼り紙でいく枚ともなく示されており、しずかな調子で、彼女はそのひとつずつを口にだして読んだ。
 表からはささやき声がどうやってか室内へまで届いていた。きっと蝶と保育園児たちによるものだ。雲の奥には、晴れてもわずかによどんだままの一画があり、ゼンディカ州はそのあたりにあった。天使が揺蕩い、魂の昇華されていく特別な場所では、常時ハロゲン雲からの雨が芝草をぬらすのだそうだ。
 彼はもうそのあたりへまで行っただろうか。
 神さま。ようやく落ちつきをとり戻し、十字を切った。神さま。お許しください。棚をずらし、その下の床をあらわにしてから、鍵穴をさぐった。指が触れるとぺこんと凹んだ。息を吐き、心の所在地をあらためた後、鍵をまわした。陶磁器を持ちあげ、台に捧げた。窓の外では、金目のもののすべては壺に入れられてあったのだが、その壺のなかにはなにひとつとしてなかった。けれど温かな慈しみが溢れる。その慈しみには、およそ数グラムほどの重さがあり、肌触りがあった。
 細かな女神たちによる視線だった。魔法瓶の中身を注ぎ、二、三時間待った。父いわく、女神に頼るのは弱い人間のすることだった。でもお前は強くなくていいから。父は聡明で日に焼けたがらない人だった。公平であってくれ。女神らはぞろぞろとこぼれ出てきた。非可食なゼリーみたいに。止め処なく、足もとを充した。ごめんね。それはひとつずつ、指が第四関節ありそうな声で、彼女の心を八億くらい重ねた。父も当然、不幸に死んだ。それを反復し、同期していた。めがみ、めがみ、めがみよめがみ、と。そうなったものらにも重さがあり、温度は四度五分くらいだった。透明なので日に光っていた。
 窓の外では、人びとが死にたいと考えていた。ときとして星座の瞬きを数え、占うのは恋の行方だった。午後からはサーカスによる催しがあった。道にはマイナポイントが棄てられていた。ゼンディカ州からのお告げもあった。蝶が怪訝そうにささやいていた。梅雨が涸れ果て、夏も萎れていた。すべては神の目の支配下にあり、もしかするとあれは女神ではなく、未来からのサムワンスペシャルだったかもしれない。
 日々は十月とともに散逸していき、その冬が栽培されつつあった。
 絵を描き、卵を食い、汗を流している人たちがいた。
 ある人は生きていることが辛く、ある人は店のアサイードリンクをしか口にしなかった。こどもも大人もマフラーをしていた。鬼がひとり、またひとりと公園のあたりから失われていた。彼女は高層マンションにいて、展望エリアの、重い鉄扉をまたとじる。二千年に一度だけあくような扉を、彼女が潜ることはもう二度とない。ぜんぶを見晴らせ、河川は曲がり、大小のビルと鉄塔が逆さまになって突き立っていた。星も家屋もがやたらに低く、ジャンボ機は羽田から近宇宙に飛びたち、プラシオライトを散りばめた街へと青い警笛が鳴りひびいていく。
 そのひとつ残らずにはかがやきがあった。
 誰かが生きて、暮らしているのだ。鬼も雪男も住まわれないところで、誰かは代え難い幸福を得たり、またとくになにも得なかったりしていた。恋の落雷が列になり、柱として夜雲を支えていた。遠くを見下ろし、嘆息を飲んだ。そうしてみると、世界とはたしかに、すばらしいようにつくられていた。どんな思念にも誤ちなどなく、どこにも誤った判断はなく、どこにも誤った行いはなかった。月がたじろぎ、心持ち減った。そのときようやく、彼女にもあすを生きようと思えたのだが。あのものらが殖えすぎてしまったのだろうか、ざまあみろざまあみろ。ざまあみろ馬鹿。
 と反復した末、ぜんぶ毀れる。

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