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あったものがなくなる悲しさと感情の変化について
久しぶりにTSUTAYAに行った。
閉店が近いので規模が縮小し、レンタルスペースはすでに狭くなっていた。
狭くなったレンタルスペースを見ていたら悲しくなり、借りるのを躊躇った。
借りずにそのまま帰ろうとしていたら、偶然、パロアルト・ストーリーを見つけた。
ゴーストストーリーを観た後、不意にこの作品のことを思い出し、久々に見返したくなっていたので、見つけた時は運命を感じた。
パロアルト・ストーリーを観るのは5年ぶりだった。
5年前に初めて観た時は、音楽とか思春期の雰囲気とかがすごく響いた。(当時の私がどんな感情だったかは、感想を残しておらず振り返ることができなくて残念。)
けれど、久しぶりに観たら、当時の共感できた気持ちが薄れてしまっていることに気がついた。歳をとったせいなのだろうか。
5年前はどんなことがあっても、アクセルを踏み続けていられた。勢いで乗り越えてきた。
しかし今はブレーキを踏んだり、途中で休むことも覚えた。あの勢いが失われつつある。そんな変化に、少しさみしくも思った。
でも、このタイミングで再び観ることができて、本当に良かった。とてもいい距離感でこの作品に向き合えた、そんな気がした。
ハートを彫った木がなくなってしまい、エイプリルが悲しんだように、
あったものがもう2度と見れなくなったり、失われるのはすごく悲しい。
数年後、エイプリルが再びその場所を訪れることはあるのだろうか。木が確かにそこにあったことを、エイプリルは思い出すのだろうか。
わたしはTSUTAYAがなくなっても、なくなったその場所に行ってみようかな。そんなことを考えた1日だった。
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