ネガティブは「あたりまえ」なときもあることにたどり着くまで

自己紹介的なもの で昔のことを書いたらだいぶいろいろでてきたのでまただらだらかいていく。というかどんどん出てくる・・・

親の育て方
特に昔の親の印象はというと、ほめてくれない、「~になったらどうするんだ」みたいなことばっかり言うなというイメージがあった。

最近、なんであんなことばっか言ってたんだときいたら、「心配だった」からだそうな。まぁその気持ちは何となんとなくわからなくはない・・・が・・・いやまて、不安を与える前に希望を与えろ!希望を!おい!
ここまで育ててくれてとても感謝はしているんだけど、ちょっとこれにはまだわだかまりの感情が残っている。

不安感とそんな自分が嫌いという感覚
まぁ最近のことは置いといて、そういう育てられ方をしたもんだから、昔は神経質、神経症気味になる、すぐ不安になる、なかなか動けない決められない。自信がない。みたいな感じだった。そんなネガティブで、自分はそんな自分がまぁまあきらいだった。
親もあんまりぐずぐずしているのが好きじゃないたちだったので、その圧力からだんだんと無理くりにポジティブになろうと頑張るようになっていた。

何とかなったけど・・・
そんなまま中学に上がって、いろいろな闇に接するうちに自分のネガティブ性をより強く嫌う、ないしせめるようになった。その一方でそのに対してはまぁ明るくしようとするみたいな感じになっていた。
「自信のなさや自分を嫌った状態で出す明るさ」っていうのは他人の意図に対してもろい。すぐ影響されてぶれてしまう。
そういうところもきつかったなぁ

そのあと高校に入って、自分をさらに追い込みすぎてとうとうまいってガタガタになってしまった(自己紹介的なもの に書いた通り)。その一件で自分が否定していたものの中に大切なものが沢山あったこと(その中には、自分と向き合うことも含まれる)に気づけたので、結局はよかったっちゃよかったんだけど。
そこから、自分と向き合う、自分を知っていくことの長い道のりがやっと始まった気がする。

今振り返って思うこと

今振り返ってみると、そりゃ

・ほめてくれない
・「~になったらどうするんだ」と言う。

っていうのが多い環境にいたら、ネガティブになるよなぁ。
ネガティブになるのは「あたりまえ」だったんだ。完全じゃないものの、今はこうして場合によってはネガティブな状態を「あたりまえ」としてとらえられることができるようになったのはよかった。

当たり前にネガティブになる条件で、自分自身をせめる必要はない。せめても解決にならない。
もちろん上に描いたようにせめまくって爆発させて挫折経験に昇華させるなんてのもありなのかもしれないが、あまりおすすめはしない。ただその「状況」を、自分が向き合える範囲で丹念に一つ一つ見ていくのがいいような気がする。

まぁでもあの時、そういうネガティブさをあたりまえと言ってくれるような人や場所や事柄に出会えていたら、もっと楽だったのかもしれないなとか、もっと人っぽく育てたのかなぁ、とふっとちょっと思った。