見えない

  目が覚めて、僕は自分が透明人間になっていることに気付いた。特別なニュアンスなどない、身体の透きとおった透明人間。

 驚いた僕が口を開くのと同時に、

「じゃあ、私、二コマ目から授業だから」

 そう言って彼女は僕の方を振り向かずに部屋から出て行ってしまった。

 こんな状態で大学に行くのは何だか馬鹿馬鹿しい気がして、僕は昨日買った漫画を開いた。ページが勝手に捲られているような感覚に酔って、すぐにやめた。ゆっくりと起き上がり確かめるように歩く。洗面台の前に立つ。長方形の鏡の中に、僕は、いない。

 僕は再びベッドに戻り、潜り込んで目をつむった。透きとおったはずのまぶたの裏はいつものように真っ暗だった。自分の右手で、左手に触れる。ここに僕がいることを知っているのは、僕しかいなかった。

 いつの間にか寝ていたようで、気付いたら夕方だった。彼女は買い物をして帰ってきて、狭い台所で鶏肉を切っている。

 彼女の後ろに立つ。彼女は気付かない。

「何を作るの?」

 背後から聞こえた僕の声に、彼女はカレーよ、と短く答えた。

 そして僕の方を見ないまま、言葉を続ける。

「私ね、小学校の社会の時間に、先生から、鶏や牛や豚を育ててる農家の人は、きっと出荷の時とても辛いだろうねって言われて、うんうんと頷いてたの」

 彼女は気付かない。僕の身体が透き通ったことに。

「でも今になって、実は彼らはそんなに辛くないんじゃないかって思うようになった。だって、彼らにとって家畜は商売道具だもの。その程度のものよ」

 辛いなんて思わないわ。そう言って、彼女は肉を鍋の中に入れた。彼女の白い手を見ながら、ああ、そうか、と僕は諒解した。

 興味がないのだ。僕が目に映ろうと、映るまいと、彼女にはもう、関係ないのだ。僕は自分の両手を見下ろす。見えない。何もないみたいだ。その程度のもの。

 随分前から、僕は何処にもいなかったのだと思う。

 ここには、僕しかいなかった。

「ねえ、別れようか」

 零れるように、言葉が落ちる。

「……そうね」

 わざとらしく空いた行間に涙が落ちるように、僕の両手が色を取り戻した。

 彼女は、やっぱり振り返らない。

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