つながりに苦しむ

 2013年の日本ダービー。キズナという馬が3歳サラブレットの頂点に立った。キズナという名は、東日本大震災の後、盛んに使われた「絆」という言葉に由来としている。スランプに喘いでいた鞍上武豊の久々のダービー制覇と相まって、被災地の人々に希望を与える明るい話題であった。しかし、私は、キズナのダービー制覇と武豊の復活を素直に喜べなかった。それは「絆」という言葉を聞いて、大学時代の寮生活の苦い経験を思い出したからだった。
 私の通っていた国立大学の男子寮では、学部生のほか、院生や5年生以上の留年生まで100名程度が暮らしていた。建物は古く、共同のトイレや流しは汚く、壁の至るところに落書きがあった。薄暗い廊下の両側に居室が並び、二人一部屋で共同生活を送っていた。部屋には机とベッドがあるだけで、テレビの持ち込みも禁止だった。パソコンは、持ち込めたが、インターネット環境はない。もちろんクーラーもなく、冬場もスチーム暖房のみで夏は暑く、冬は寒かった。金銭的にゆとりがある学生なら、自由で楽しい学生生活を謳歌するためアパート生活を選ぶはずだ。私が寮生活を選んだのは、風呂、飯付きで、寄宿料も安かったからだ。
 しかし、入学式の夜のオリエンテーションでそれが誤った選択であることを知ることになった。広間でほかの1年生と待っていると、突然、観音開きの扉が蹴破られ、上級生が怒鳴り声をあげながら、なだれ込んできた。「並べ!」「急げ!」「気を付け」寮生活の説明会だと思っていた私は、わけもわからず、言う通りに直立不動で整列した。2年生が周りを囲み、「番号」の号令で順に番号を叫んでいく。声が小さかったり、間違えたりすると周りから「やりなおせ」の怒号が飛び、一からやり直しになる。自分の番がくると緊張で声が裏返る。正面には、腕組みをした3年生が睨みを利かせ、窓の外では、興味本位で集まった上級生が見学している。恐怖と緊張で体中の震えが止まらなかった。親元をはなれ、誰も知り合いのいない状況に泣き出してしまいそうだった。ようやく番号を数え終わると、寮のルール挨拶の仕方、食堂の使い方や風呂の入り方、酒席でのルールなど教わる。しかし、ルールが多く細かすぎてとてもその場で覚えられるものではない。
 入寮後に知ったことだが、私の通っていた大学の寮は、自治寮で、学生自らが運営していた。かつて学生闘争の巣窟であったらしく、大学に自治権を返上しまいと厳しいルールが敷かれ、結束を図っていた。オリエンテーションは、新入生に寮生活の厳しさとルールを叩き込む恒例行事らしい。私の暮らした頃は、さすがに鉄拳制裁はなかったが、上級生のことは「先輩」ではなく、「上の方」、自分のことは、「私」ではなく「ジブン」と呼ぶ決まりにそのなごりが感じられた。昼夜を問わず1年生が大声で挨拶をするため、その声が寮の外まで響き渡っていた。寮の脇を通り抜けて通学する一般の学生には異様な光景に映っていたはずだ。寮のルールや制度は時代遅れで、寮生は減少していた。私の同学年も、オリエンテーションのあと、次々と寮を後にしていった。入寮から半年過ぎたころには、当初の3分の1程度まで減っていた。
 中・高校時代に体育会系の部活動を経験してない私には、寮の上下関係や厳しいルールのある生活は苦痛以外のなにものでもなかった。部活動ならば、家に帰ればリラックスできるが、寮生活では、それができない。飯を食べようとすれば、食堂のルールが、風呂に入れば風呂のルールがある。大学の構内でも上級生を見かければ挨拶をしなければならず、毎日が緊張の連続であった。ルールが守れないと、2年生に夜中にたたき起こされ、廊下に整列させられ、大声で怒鳴られた。アパートで自由で楽しい大学生活を送る学生たちがうらやましかった。「こんな寮とっととやめてやる」と何度思ったかしれない。しかし、私には寮をやめる勇気や行動力すらなかった。そして、寮にいる期間が、長くなれば長くなるほど寮を後にするのが難しくなった。同学年の仲間とは、同じ釜の飯を食い、酒を酌み交わし、苦労を共にするなかで、次第に仲が深まり、かわいがってくれる先輩たちも増えていったからだ。
 寮には様々な行事があった。レクリエーション大会や遠足、文化祭。休みの日には、ソフトボールやサッカーをした。また、サークル活動も行われており、サイクリングや登山、ドライブなどを楽しんだ。これらの行事やサークル活動を通して寮生は交流を深めてく。
 寮の飲み会では、寮式の「自己紹介」をした。文言が決まっており、同じ内容を言う。この「自己紹介」で上級生は、1年生の名前を覚え、定型の口上を述べることで連帯感がうまれていった。宴の最後では、みんなで肩を組み寮歌を歌った。
 考えると寮生活のあらゆることが寮生の団結につながっていた。自治寮では、大学と戦うため、寮の統率を図るため、結束することが重要であった。寮生の団結の象徴する言葉が「絆」であった。 
 私が、退寮したのは、2年生の時である。2年生になると、1年と上級生との懸け橋になる役目が生まれる。風呂、飲み会、行事など寮生活の様々な場面で、1年生を上級生に紹介し、顔と名前を憶えて仲良くなってもらうのだ。1年生のころは、寮のルールを覚えるので精一杯であったが、コミュニケーションが大の苦手な私には、それにも増して、大変であった。
 そして2年生の半ばごろになると、寮の役員を任される時期になる。私たちの学年は人数が少なく、学年全員で務めることになった。役員になるには、寮内の役員OBにアポをとって、部屋を訪問しなければならなかった。自分たちがどんな寮を作るのか説明し、情熱と役員への覚悟を示すのだ。OBを見かければ、寮の内外を問わず、声を掛けアポを取らなければならなかった。
 そんな生活が耐えられず、ある日、私は寮を飛び出した。町中を歩き回りながら、絶望の中、様々なことを考えた。人生のこと、寮のこと。そして、寮に残り頑張っている同学年の仲間に罪悪感を抱いた。
 どん底の中にいた時に五木寛之の『人生の目的』(幻冬舎)というエッセイを読んだ。それには絆について書かれていた箇所があった。〈絆〉やそれに類する〈ほだし【絆し】〉という言葉には、「動物をつなぐ綱」「足かせ、手かせ」という意味や「自由を束縛するもの」「断つのにしなびない恩愛」という意味があるらしい。そして「肉親の絆、家族の絆など、いかにも美しいもののように用いられている言葉の背後に、なんとも言えない重苦しい影をかんじさせられてしまう」と書かれていた。 寮の生活に縛られ、苦しんでいた私は、深く共感した。

 人はひとりでは生きていけない。社会で生活していくためには、人とのつながりは不可欠である。しかし、人とつながることは、よいことばかりではない。そのつながりに苦しみ、あえぐ人がいるのだ。震災のあとのように「絆」という言葉が、美しく神々しいものの様に使われているのを聞いたとき思うのは、寮生活の苦しい思い出とその「絆」に足をとられ、もがき苦しんでいる人のことである。



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