日記2024年9月②

9月3日
最近寝ている時に4歳児の足が顔の辺りまで伸びてくる。
幸田文『雀の手帖』を歯磨きの時間にちびちびと読んでいる。幸田文の書くものが昔から好きである。鋭く粋であるが、言わぬが花の簡潔さが饒舌である。私はやっぱり東京風が馴染んでいるのかもしれない。
昨日の詩の講座では山﨑修平さんに「もっとクレイジーでもいい」と言われた。たしかにそうかもしれない。でも大仰にすればいいというわけでもない。
昨日の産科クリニックの駐車場に白黒長毛の大きな猫がいたので交流したかったのだが明らかに警戒していたので目を合わせないで離れた。
日記だが昨日のことばかり書いているな。

昨夜妙に不安になってしまって寝つけなかった。不安に気づく→対処法をとるということをしてみた。近年の心理療法はおしなべてこの形をしている。「こころ」というのは見方を身につけて初めて見えてくるもので、それが自明ではなくなっているとしたら、そこから一緒に考え始めないといけない。
一度寝ついたけれど明け方の雷雨で何度か目が覚めた。たぶん一人だったら気にならず寝ていると思うのだが、雷鳴で子供がもぞもぞと動くので、起きて泣かれたら大変だと咄嗟に思って目が覚め、子供の背中を触って寝かせる。
子供はまた寝坊した。私が起こしても起きなくて、妻が起こすと起きる。私が本気でないのがバレている。

精神科では困りごとに対して対処を考えたりするわけだけれど、その対処の方針はどうあるのが望ましいのかという価値観を常に内包していて、その価値観を意識せずに心理療法の技法を知っているだけだと、あれやれこれやれと指示を出すだけになってしまって協働的な関係に入れない。答えのない問題をなんとか動かしたいと思っている患者さんには、心理療法が人間のどのような状態をよい状態と考えているかを念頭に置かないと、次のアクションを設定できない。中立性を重要視する精神分析的なセラピーであっても、「今ここ」の出来事を尊ぶ価値観があるから、膠着した状況でも治療関係・治療構造を維持することがアクションの目標となる。行動療法では「多様な強化子に接触するような環境にある」ことが望ましいとされるから、大事な人や物事との接触が増えるような行動を提案してみる。だから「考えるのやめたら?」とは言わず、「こうしてみたら?」と言うのである。答えのない問いを考える苦痛を減らすことが主訴かもしれないが、治療者のアクションはただ苦痛が減ればいいというだけでなく、望ましい状態像へ近づけようとしている。

あえて失敗する余地を残して行動実験をし、実際に失敗した場合に得られる結果は、すべり笑いに似ていて、失敗がむしろ成立していることに意味がある。ある種の行動実験はすべり笑いの設計である。

専門医のことを調べていたら大変不安になった。
不安の対処を実践的に考えてみたいと最近思っている。急に弁証法的行動療法の本を注文するなどの浪費で紛らわせるのではなく(書いました)、不安を対象化して取り扱う。
妻がホームベーカリーをセットした。明朝できているらしい。たのしみである。

9月4日
初のホームベーカリーはおいしく焼けた。焼きたての食パンは耳もカリッとしている。粉と水を入れれば翌朝には焼けている。すごいことだ。炊飯器が登場した時もこんな感動を与えたに違いない。

最近病気休養から復職するときに産業医の先生が生活記録表(起床や就寝の時間や活動の記録)を書かせることが増えた気がする。結構画一的にやっている。産業医の先生はそれを復職可能かどうかの評価に使うから、もっとこうしてと指示を出すことはするけれど、治療的には使わない。主治医としてはその狙いや改善策を一緒に考えることで治療効果を上げたい。結果の評価と過程の支援では全く意味が違う。生活記録表はツールなので、使い方によって意味や効果が全く変わってくる。

最果タヒ『グッドモーニング』を読み始めた。すごい。こういう饒舌さもあるのか。

子供が「きょうはおとうさんにおこられてないよ」と言っていて複雑な気分になった。

9月5日
晴れ。割と早く起きられた。今朝も焼きたてパンである。おいしい。子供も食べていた。子供を送ったあとドトールで書き物をしようと思ったがなかなかとりかかれない。
精神科の勉強をすると「この疾患はこういう病態なのでこういう介入をします」と書かれていて、きれいな医学としてはそのように記述することを目指すのは正しいのだが、精神科は「疾患」の生物学的記述がごくわずかしかできず、「疾患」内部の多様性が大きいため、「疾患」と「病態」と「介入」を一対一で対応させることができず、実際の臨床では常に「病態」のアセスメントを調整する必要がある。心理療法の世界ではそのプロセスが当たり前のこととして明示されるが、精神科の世界ではなかなかそうならない。「疾患-病態-介入」複合体の結びつきがそのイデオロギー上強いのだと思う。「回復」と「治療」の違いとも言える。治療を医学的に記述するとどうしてもプロセスとして進展するものであるという側面がうまく書けなくなる。そこを絶妙に書いたのが山下格『誤診がおこるとき』であるけれど、医学の本懐が「病態」の解明であるからこういった臨床的に本質的な思考はあくまで例外的で周縁的な思考とされる。実際には、精神科は精神や心という事後的でありうる対象を扱うので「本当の病態」がわからないまま「仮のビョウキ」を設定してとりあえずの介入を始めた結果として後から「病態」の理解を生ぜしめるという戦略がありうる。「治療」ではなく「回復」を目指すとはそういうことである。「treatment based approach」ではなく「recovery based approach」である、とか言うとかっこいいかもしれない。しかし本当にかっこいいのは「病態」解明であるという強固な医学のイデオロギーがあるので、「回復」は常にダサカッコワルイ。私はそういうことを考えている。

本屋で岩波文庫の『リルケ詩集』を買った。講談社ブルーバックスの川辺謙一『鉄道の科学』、講談社現代新書の戸谷洋志『生きることは頼ること: 「自己責任」から「弱い責任」へ』を買った。リルケめっちゃいい。

子供の迎え。サッカー教室を待ちながら他の保護者と話す。今度遊ぶ約束をした。

遅い時間まで呪術廻戦のウィキペディアを読んでしまったがだいぶ復習できた。

9月6日
妻が腰を痛めて休みをとった。子供を送ってから出勤。最近毎週製薬会社の営業さんに名刺を渡される。つまりどの会社からも「こいつだれだ?!」と思われている。
気分障害の鑑別をうまくできるようになりたい。これはなんでも双極性障害と名づければそこでゴールという惰性への敵愾心でもあるが、単純に診断と治療がうまくなりたい。そのほうが患者さんが幸せだから。
幼稚園のお迎えで仲のいい子と一緒になり、子供がお菓子をあげたいと言うのでお菓子交換になった。

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