日記2024年4月④

4月11日
晴れ。涼しくてちょうどいい。妻はまだ寒がる。私たちは温度の感覚だけは合わず、私が薄着で出かけると信じられないという顔をされる。10℃台後半で推移する日が一番ちょうどいい。つまり今日である。髪を切りに行く。最近若い人で唇にピアスを開けていることが多い気がする。高校生も開けている。流行っているのだろうか。葉桜と唇ピアス。
『高慢と偏見』。11章はビングリーの妹がダーシーに横恋慕し、注意を引こうと頑張るほどダーシーとエリザベスの会話が弾むのがおもしろい。18世紀末イングランドの田舎の上流階級の社交。冗談でからかいながら議論をたたかわせる。小説における会話の記述は、エリザベスの機知をとりわけ際立たせる。小説の会話はウィットの装置である。12章はうってかわって会話を省いて説明的に書かれる。ジェーンの風邪が癒えてエリザベスとともにベネット家に帰る顛末が示されて、大きく最初のパートが一段落した。繰り返し形容されるエリザベスの「明眸」はダーシーの自分への視線だけは正しく捉えない。都会の富豪であるダーシーへの「偏見」がダーシーの「高慢」を悪いほうへ歪めてしまう。しかしそれがエリザベスのウィットを引き立たせる。ダーシーとエリザベスが何度もすれ違って第一パートが集結する。さらっと終わるのが清々しい。13章で従兄のコリンズ氏が登場する。コリンズ氏は全くの愚か者として書かれる。馬鹿なタイプの「高慢」。エリザベスを結婚相手として狙って今後引っ掻き回すのだろうと思う。ビングリーの妹とともに横恋慕の喜劇要員、と言ったらかわいそうだがそういうことである。どちらもきちんと自分の立場や人間性を「正しく」徳のあるものとして示そうと努力して、その「高慢」さがきっちり失敗しているのがよくできている。読者にはそれが全部開示され、登場人物本人は何も知らされず、気づかない。残酷な喜劇の構造である。
美容室には新人さんっぽい人が何人か心細そうに働いていた。端のほうに立ってキョロキョロして、人についていったり何か手伝いますと声をかけたり。あ、いまは大丈夫、とか言われて引き下がっていた。研修医と一緒だ、と思う。いつもの長さにしてもらっていつものパーマをかけた。
子供の幼稚園のお迎えに行った。今日はサッカー教室の日で、年中さんになり年長さんと合同になる初日だった。案外人数は多くなく、やっている雰囲気、言うことの聞かなさ、仲のよさは年少の頃と変わらなかったけれど、内容はもっとサッカーらしくなってきて、転がるボールを停めて方向転換してゴールを目指したり、一つのボールをみんなで取りあったりしていた。
教室が終わって近くの公園に寄ったら、同じ幼稚園の年長さんの女の子がいて、いっしょにあそぼうと誘ってくれたのでしばらく遊んでいた。これくらいの女の子は年下の子を年下の子として世話を焼くのが好きな子が多い。男子はただ友達だと思っている。でもそれぞれ気遣っている。かまってもらえて嬉しそうだった。

4月12日
仕事の緊張感で朝早く目が覚めた。自分がお荷物になるのが怖い。
この前、子供が妻のお腹の上に寝そべろうとするので、お腹に赤ちゃんがいるんだよ、という話をしたら、「赤ちゃんがおなかにはいってくるの?」と聞かれ、妻は「入ってくるというか、今いる」と答えていた。とりあえず子供は赤ちゃんがいることを喜んでいる。子供にとっては〈おとうさん+おかあさん+自分〉と赤ちゃんという感覚だと思うので、そういう感じでやっていけたらいいのかなと思う。あまり下の子にかかりきりになるのもかわいそうなので、たまに3人だけでお出かけしたりできるといいかもしれない。
仕事量を少なくしてもらっているためすごく空き時間がある。罪悪感と無能感で心が傷だらけである。今まで元気が出ずにやれていなかった資格をとる作業を進めようかと思い立ち、先生に相談した。資格取得を進める年にしたい。がんばれ。こうやってド鬱と発奮のピストン運動を計画と行動の回転運動に変換して前進していく。
隣で外来診療をしている若い先生が笑顔で挨拶してくれて嬉しい。こういうところから好意を持たれていると勘違いする年寄りが生まれるのだと実感した。しかし普通に感じよく接してくれるのは嬉しいし、そうできるのは彼のとても優れた職業人としての資質である。と書くとどうも上から目線になるが、とにかくよい先生だと思う。
今夜は妻が当直である。カンファを定時で上がって子供の迎えに行った。玄関にいた年中さんの子に「◯◯のおとうさん?なまえは?」と聞かれた。名前は◯◯のお父さんだよ、と答えておいた。帰りの車の中で子供が寝ないように話しかけながら運転した。同じ年中さんのAとBが絵本を巡って「おこりんぼ」になり、「もうしらないっ」と言ってAはBから離れてCと遊び始め、Cはおもちゃを投げたことで先生に怒られて泣いちゃった、ということを教えてくれた。「Cはいっつもエーンって泣いちゃうよね」と言っていた。
ラーメン屋に寄った。座敷があり、子供にはおまけのおもちゃを配ってくれる子連れに優しいお店で、食の細いうちの子もラーメンなら食べてくれるので大変ありがたい。ディズニーのアリスの柄がプリントされた発泡スチロールの組み立て飛行機をもらった。チェシャ猫という名前を教えた。車の中にスマホを忘れてきたので、子供は食べることに集中でき、私は子供をじっくり見た。2人でもぐもぐと食べ、いい食事だった。たまにスマホを忘れるのもいい。

4月13日
軽く風邪を引いたみたいで喉に痰が絡んで寝不足だったのだが、子供がなぜか6時に起きてきて、パズルをやろうよと起こされた。うまくできなくて怒っていた。
郡司ペギオ幸夫『創造性はどこからやってくるのか』一度読んだのだが全然わからず再読し、1章を5回ほど読んだ。創造は「外部」に触れて経験が分節化されて既存の「価値」から出ることで「作品化」することを指す。トラウマ体験に関するサバイバーズ・ギルトからの癒しも同様の構造を持ち、創造と言えるという。サバイバーズ・ギルトにおいては、端的にそれだけでそうである被害者であるという事実に対して、実体を欠いた加害者というラベルが浮上して結びつき、もつれあっている。このもつれあいの構造をなす「被害者であること」と「被害と加害の対立図式」の突き合わせの間にある事柄の際限のなさがすなわちわたしにとって「外部」を構成する。この「外部」に触れることはつまり際限なく両者を疑問にふしつづけることであり、その反復によって両者の意味が脱色されていく。そこに何かが「やってくる」。それが創造であるという。こんなところだろうか。もう少しこの辺の論理を明確にしたい。個人的な関心では、「受動そのもの」の体験が「能動/受動の二項対立」において「不能」として経験される罪悪感の構造に何か変化をもたらすことについてのモデルとして考えることができる。
妻が2, 3年前に自分で書いていた日記を読み返したらしい。1歳過ぎの子供の様子は普段忘れているが手がかりがあるとはっきり思い出す。「ちがうよ」と言いたいときに子供は「ちゃーちゃうよ」と言っていた。ちゃーちゃうよ。体は大きくなったがたしかにあの頃と同じ子だと思う。すべては今に含まれている。
夕方、ショッピングモールの子供が遊べる場所に行った。空気で膨らませて中で跳ねられる遊具(エアートランポリンというらしい)に一緒に入って私も跳ねてみたら3分でバテて気分が悪くなってしまった。昔は一生遊んでいられたのに。でも子供は私が遊びに参加するとかなり笑ってくれるのでよかったと思う。フードコートでドムドムバーガーの後追加ではなまるうどんを食べるという罪深いことをしてしまった。子供は眠気がピークになって不機嫌になった。
駅の「Delifrance Boulangerie & Cafe」というフランスっぽい名前のパン屋さんにフランス語を話す夫婦がいて、当然お店の人もフランス語を話せるわけはなく、夫婦もそんなことはわかりきっているだろうけれども、でも私がその夫婦だったら爪の先ほどの期待はするだろうなと思うし、その爪の先ほどの期待がやっぱり裏切られたらなんかウケるだろうなと思った。その婦人は店員さんに「Matchaはあるか?」と訊いていて、ここで抹茶ドリンクを期待するのかとそれもおもしろかった。抹茶オレはなかった。我々は惣菜パンをいくつか買い、子供が自分で持つと言い張ったので持たせたけれどすぐ無理になって諦めていた。眠くて機嫌が悪く、怒っていたが、電車を降りてセブンティーンのアイスの自動販売機を見つけて急に上機嫌になった。帰って早めに寝た。

4月14日
うっすら風邪を引いていて、横になると痰が絡んでオェーッとなる。煎茶を多めに飲んでから昨日買ったパニーニを食べた。子供はディズニープリンセスの「おたのしみブック」を妻と読んでいる。間違い探しや迷路や塗り絵がたくさん入っていて長く楽しめる。4歳にちょうどいい。
イランがイスラエルを攻撃したというニュースが入った。非常によろしくない。どうなっていくのだろう。
今日はずっと寝てしまった。妻も寝ていた。子供はつまらなそうにしていて、妻は夕方自己嫌悪になっていた。私はうつ病歴が長いのでこういうときの自己嫌悪は軽い。よくあることだ。妻が何か食べたいと言うのでコンビニの材料で豚汁を作った。具材の水煮パックを使うとすぐできる。大した味にはならないが普通に美味しい。食べたあと日が暮れる前に散歩に出た。公園でかくれんぼをした。それで少し妻の気も紛れたみたいだった。
帰ったら昼間私たちが寝ている間に子供が出してきた大量のおもちゃが出しっぱなしである現実に直面した。みんなで片付けた。
子供が寝たあと、妻から二つのことを言われた。一つは子供の離乳食のこと。離乳食を頑として食べなかったうちの子も、当時保育園に行っていたら保育士さんも仕事として食べさせようとするし、そういう環境だから家と違って食べていたかもしれないね、という話のつもりだったのだが、妻は自分の頑張りが足りないと言われたように感じたらしい。二つ目はいま妊娠中の赤ちゃんのこと。明日から12週目、4ヶ月目に入る、ということをもっと気にしてほしい、愛着を持ってほしいということだった。私は保育園では多少教科書的な環境が与えられ、家ではその家なりの独特な環境が与えられるという違いがあるものだから優劣をつけなくていいと考えていて、それがいい加減さにも繋がるから良し悪しではあるのだけれど、まあそれでいいと思っているのよ、という話をし、赤ちゃんについてはたしかにまだ体の感覚として感じられていない部分があったなと思った。しばらくいろいろ話した。

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