日記2024年5月⑤

5月15日
晴れ。いい天気。風は涼しいけど陽が高くなると暑い。冷房なしで車を運転できる上限という感じ。午前中幼稚園で収穫した野菜を料理して食べる行事があり、私は仕事で行けなかったのだが妻は一瞬職場を抜けて見に行っていた。うちの子もよく食べていたらしい。私は仕事を終えていつもの喫茶店に行った。今日は混んでいて、食パンを切らしたのでバターロールサンドになりますと言われ、むしろ嬉しかった。今日は書き物が全然進まなかった。書く題材をworkflowyで箇条書きに並べてみたら、もっと適当に書いてもいいなと思えるようになった。子供のお迎えをして帰り、昨夜煮込んだ鶏モモと大根の煮物を食べた。妻の職場の問題について話を聞いた。わたしだけが気にしてるだけだと言われたらどうしようと言うので、全員とっくに気づいてるはずだから困っていることを相談したほうがいいと伝えた。大人同士で小難しい話をしていると、子供は気を遣ってひとりで遊びはじめるがしばらくすると寂しそうにこちらに近づいてくる。みんな苦労している。

5月16日
朝は雨。妻の職場のことをまた話して見送り、早い時間から喫茶店に行った。昨日の午後からずっと山下達郎が流れていた。濱口竜介監督の『悪は存在しない』を観た。なかなか語るのが難しい映画だった。濱口竜介は人がカメラの前で演じるということに対して独特の距離をとっているように見える。濱口竜介は演じることについめどういうことを考えているのだろう、とここまで書いてそういえばなんかズバリその本があったことを思い出した。『カメラの前で演じること』。あったあった。今度読もう。人が演じて人を巻き込みながらひとつの場を作ることに警戒感があるような気がする。『ドライブ・マイ・カー』の演劇の場面で顕著だったけれど、ある意味で演技が「つまらない」。演技という表層を作ることで演じることの何かを保存していて、演じることから何かを守っているように見える。よくわからんが。
映画が終わると晴れていた。
千葉市美術館で「板倉鼎・須美子展」を観た。若くしてパリに渡り夫婦で新しい表現を模索していた中で夭折した二人の作品展。人間の色や形をビビッドに捉えてキャンバスに幾何学的に表していく鼎と、ナイーブな筆遣いで繊細な感情の機微を風景におさめる須美子の、ともに明るく優しい愛情ある色遣い。よい展示だったと思う。
バスでおじいさんが乗ってきたので席を譲った。降りるバス停が近づいたら教えた。ありがとうございますと言って降りていった。割と自然に体が動く日だった。
子供のサッカー教室の時間に、同じクラスの保護者の方と色々と話せた。実は先週は他の人たちがずっと話していて私は入れず、ついに疎まれはじめたかとまで思っていたのだが、今週は新しい習い事のこととかゲームのこととか小学校のこととかを話せて、お互いによいコミュニケーションができたし、なによりみなさんいい人だった。新しい子も入ってきて賑やかである。
妻は上司に職場での悩みを相談し、自分が悲観的にみていたような状況ではなく気に病むことはないなど言ってもらい、だいぶ気が楽になったようである。事前にどういうことに悩んでいるのかを話しながらまとめていって、悩みを伝えることに伴う不安も明らかにして、そういうことをシンプルに伝えたらいいんじゃないのということで伝える内容を一緒に考えた。忖度するよりも自分の悩みを正直にストレートに表現できたほうがいい。そしてうまくいったみたいですっきりしていた。
妻と話したほうがいいことが多い日で、夜たくさん話していたら、子供がわあわあと自分の話で割り込んできたり、遊ぼうよと誘ってきたりと「妨害」する。寂しいのだろうけれど大人の話も大事なんだぞ、と言ってもなしのつぶてである。
明日明後日は妻が学会で出張であり、朝から翌日まで子供と2人である。私は大学で仕事なのでちと早めに出て子供を預け、夜は急いで迎えに行かねばならない。やや大変。夕飯は出前かなあなどと今からそわそわと考えてしまう。金曜日は幼稚園から持ち帰る荷物が多く、帰り道の車内で子供が寝てしまうと荷物を持って子供を抱っこして家まで歩き、鍵を出して開け、子供を起こさないように布団に寝かせる必要があって非常に大変である。今からそわそわしてしまう。たいていどこかで失敗して子供が起き、寝起きによる最悪な機嫌で大泣きする。子育てである。
夕方から風が強く、夜も音が騒がしい。
うつ病本(仮)は最近デモンストレーション的にひとパート書いてみたのだが行き詰まっている。目先を変えて、今日はアイデアメモをworkflowyに並べてみた。不思議なものでこれだけで急になんとかなりそうな気がしてくる。下位項目をいくつか立てて内容を考えてみるとさらにいけそうな気がしてくる。

5月17日
晴れ。いい天気。妻が学会参加で早く出かけたので今日は子供を幼稚園に届けたあと大学病院に向かわねばならず、遠回りになるので早起きして家を出た。いつもより早く幼稚園に着くと普段と違う子たちと会う。この子とも仲良くやっているんだなあとわかる。
大学病院の勤務も少しずつ慣れてきた。製薬会社の人が抗うつ薬の説明会をやっていたが一個も質問に答えられていなくて大変そうだった。
B型肝炎ウイルスワクチン接種に関してバタバタした。病院に私の以前の記録がなくて、今回打つべきか判断が難しかったからである。もうなんだかよくわからないのだが、とりあえず打っておきますということにした。うつ病が燻っていた頃はこういう小さなトラブルがとてもつらくて、健康にキャリアを歩む人は私のような惨めなトラブルはないに違いないなどと思って死ぬことを考えたりしたのだが、今日はチクショーと思いながらも普通に解決していけた。不思議なものである。何かをしたからできるようになったというような単純な言い方はできなくて、目の前のことをひとつひとつがんばった結果として今の自分に自信が持てるようになったとも言えるし、鍛えて防御力が上がったとも言えるかもしれないし、もしくはそんなマッチョな見方をしなくても、自分のやることを楽しむことができるようになったと言えるかもしれない。しかし何がそうさせたのかはよくわからない。
最近子供が幼稚園の同級生について「いつもおこられて泣いてる」「いうこときかないから」と親に言う。告げ口である。いろんな子がいるし先生に怒られてもいいと思えた方が子供にとっても楽なのではないかと思うけれど、子供としたら大人の言うことを聞いて守るのに一生懸命になって人生を賭けてやっているのだからなかなか難しい。「泣いてる子には優しくしてあげたら嬉しいんじゃない?」とか「言うこと聞かなくてもみんなかわいい子だなあと思うよ」とか言ってみたら、一瞬フリーズして考え込んでいた。かなり戸惑わせたかもしれない。でも思ってもみなかった考えに出会わせるのも大人の役目かもしれない。いや、よくわからない。大人の言うことを聞けと言いつつ聞かなくてもいいという二枚舌を大人の愛情を通貨にしながら使い分けていることでもあるから卑怯だったかもしれない。まったくわからない。何が正しいのやら。
妻から煮魚の写真が送られてきた。漁港の街に出張中である。魚の食べ方がわからず苦手だと言うので昼間にコツを伝授した。私は魚を結構きれいに食べるのである。そうしたらアラカブの煮付けを上手に食べられてとても美味しく、自信になったと言っていた。とてもいいことなので、お祝いをすべきである。
明日は子供をピアノの先生の家に連れていく(子供はピアノ教室というより家に遊びに行っていると思っている)。

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