日記2024年9月⑦

9月22日
うつ病の本を書いていて、詩の講座のために詩を書いていて、文フリのために短編小説を書いているので、仕事の資格をとるための準備をする時間がとれず、教官から言われているデータ解析もやる時間がない。優先順位のつけられないアホに見えるかもしれないが本人としては真面目な悩みである。うつ病で子育てをしているともともと使える時間が少ないというのもある。
子供にかまえずにいたらバタバタと騒ぎ出し、注意をしたらすごく怒り出したのでなだめたらけろっと機嫌が直った。
子供の要望でショッピングモールへ。マリオのキラーのフィギュアを買った。一角でスノードームを作れるお店が出ていて、子供が選んだミッキーとかシンデレラの人形を接着剤で台座に貼り付けて一生懸命作ったのだが、子供が割と早めに飽きて備品をいじって危ないので注意をしたらまた泣いた。大人はずるいとか大人はウソを言うとか泣きながら言っていた。なだめるのが大変だった。手を接着剤まみれにしながらスノードームを作った。接着剤が完全に乾くまで待って明日水を注入するらしい。
最近ずっと首が痛くて、間違いなく枕が合っていないと思っていた。ショッピングモールに体を測定して枕を作ってくれるお店があった。以前は全く無関心だったので無の空間だったのだが、枕を求めるようになって見るとなんとも頼もしい。最初は既製品で十分だと思っていたのだが、お店のおばちゃんの営業がとんでもなくうまく、枕を試せば試すほど自分に合った枕のほうがいいに決まっているという確信が育ってきて、最終的に自分の高さに調整した枕を買った。しかし高い。35000円くらいした。首がおじゃんになる前に対策できたと思えば安いのだろうか。
フードコートでうどんとたこ焼きを食べた。

9月23日
妻のリクエストでホテルのランチビュッフェに行った。栗のデザートが美味しかった。子供は焼きたてのピザをたくさん食べていた。お腹いっぱいになった。
その後近くのイオンの子供を遊ばせられるとこで少し過ごし、熱帯魚屋さんを見てから帰った。結構歩いて疲れた。
夜は残りもので簡単に済ませた。

ドラマshrinkの第3話を見た。境界性パーソナリティ障害(BPD)の回。典型的な要素を全部盛りにしてBPDという疾患概念を紹介するようなつくりになっていて、この点は今回の3話のシリーズで一貫している。DSM-5に準拠しつつ理想化とこき下ろし、投影同一視などの心理的機制を盛り込んでいた。空虚感はヨワイが説明的に補うかたちで触れられた。全体に伝統的な力動的説明をしている。治療導入も往年のスタイルという感じで診断を伝えて治療構造と境界を定めて疾患理解から患者に任せ、不安定な対人関係で失敗を繰り返す中で徐々に対人スキル・社会スキルの問題に焦点づけていってデイケアとSSTに繋ぎ、その過程で原家族やトラウマ的体験について自分で洞察するのを待つ。
BPDはちゃんと治療されれば結構よくなると専門家が言うのを何度か聞いたことがあり、私もそういう印象を持っているけれど、なんかこう今回のドラマの内容だけだとなんだか物足りないような気がした。患者さんのキャラクターに全部背負わせすぎというか、医者なんにもやってなくないか、とは思った。
雑感を雑に書いておく。
ドラマ開始3分くらいでBPDの診断までいくのはドラマだからしょうがないとはいえさすがに早かった。患者が「躁鬱なのかなと思って」と話すのはリアルなのだが医者はスルー。診断行為はこれ以降患者が受ける医療の内容をかなり大きく縛るものなので現実にはもっと慎重でありたい。特にBPDのようなスティグマの強い疾患にあっては。
また、第2話の感想でも書いたのだが、本来精神科医は診察室で患者さんと対面して患者さんの情報を得る。当たり前なのだがこれが実は非常に難しくかつおもしろいところで、診察室の情報だけで診察室の外やこれまでの来歴を構成していく。そこに空想の混じる余地もあり、様々な感情が喚起されながらダイナミックに人物像が構築されていく。それがおもしろいわけで、このドラマのように高校時代の友人ご本人が登場して情報を知るというのは本当は「つまらない」ことである。ドラマなんだから本当におもしろいことのほうを描けばいいのにと思う。(もちろん実臨床で実際の出来事について第三者からの情報があると有意義なのは間違いないが、それはまた別の話である。)
上述の通りこのドラマではBPDの疾患概念の説明をアメリカ的な精神分析の枠組みで行う伝統的な捉え方をしている。そこでは転移感情の洞察が重視されるわけだが、個人的にはこの説明だと「あなたが歪んだ捉え方をして感情を我慢できないから相手とトラブルになるのだ」と受け取られやすいのではないかと思っていて、そうすると当然治療の受け入れは悪くなり、行動問題が繰り返される。疾患教育による治療導入というのはあらゆる疾患で治療初期の成否を分ける超重要ポイントだと思うのだが、この第3話ではなんらかの本を渡して終了であり、何を問題とするのか共有していなかった。BPDの何がどのように障害なのか説明し、共有する。この心理教育の過程が疎かで患者の努力次第ですよ、患者自身が洞察しなければいけませんよ、みたいな治療観だと、いわゆる底つき体験が必要だ、みたいな話になっていく。疾患教育・心理教育については第2話も第3話も資料を渡してはいご自身で勉強してくださいというかたちだったので、なんだかなあと思っている。
BPDの疾患概念はアメリカの精神分析的精神医学の中で確立していったわけであるけれど、治療として現在エビデンスベースドに評価されているのは弁証法的行動療法であり、疾患概念と介入法の間に裂け目が入っているような気がする。理想化とこき下ろし、投影同一視、見捨てられ不安などの力動的な見立てをしたからといって、そこを治療の中心点にするわけではなく、ドラマの中でもSSTに繋いでグループワークの中で強い感情的体験と妥当な表現・行動との間のバランスをとる練習をしていたわけである。リネハンの弁証法的行動療法では最初から感情調節障害を主要な標的として、生物社会的説明モデルを立てて説明する(生得的な感情反応の強さが環境の応答の仕方によって強化されてきたと考える)。力動的な空想的対象関係に病理を見るのではなく、感情の強さとその結果の行動との間の相互作用(随伴性)を見る。そして感情を受け入れることと感情を制御することという相反する態度の間を行き来しながらまとめていく(弁証法)。これをグループの行うのが本来の形であるけれど、治療導入のための心理教育としては私はこれが一番一貫していて強いと考えている。力動的な機制は原因ではなく結果であると見るのである。こちらのほうが患者にとっては何に取り組むべきかがわかりやすく受け入れやすいと思う。弁証法的行動療法を直接的に正しい形で実施できずとも、個人精神療法の中でこのモデルを使って心理教育をするだけでだいぶいいのではないかと思う。
ちなみにドラマの中で「操作性」という用語が出なかったのは評価できるポイントだと思う。「操作性」というのはBPDの患者さんが自分の要望を通すために治療者の言動を意識的・無意識的に縛ることを指すけれど、これは多分にネガティブな評価を伴っていて、スティグマが大きい。リネハンは90年代からこの用語を批判していて、今はこのドラマでも使われないくらいに要注意であることが浸透しているのだなと思う。
BPDの7割程度で被虐待歴があるという。とはいえ双生児研究で遺伝率が40%台という高さで出たくらい生得的な要因も大きいのだが、環境要因は重要である。だからリネハンは生物社会モデルを採用している。BPDの疾患概念にも治療モデルにもトラウマ治療が出てくることはないのだが、臨床上はほとんどの場合でトラウマ的体験を扱うことになると思う。リネハンはBPD患者の育った過程を3パターンに分けている。その中にいわゆる「High EE」の両親について言及があり、つまり子供への批判的、支配的表出の多い親のことである。今回のドラマでは患者の父親がそのような親として描かれ、直接的な殴打は描かれなかったけれども、コップを投げつけて割ったり、花を投げつけたり、置きざりにしたり、夫婦間の暴力を見せたり、存在を否定したり、いわゆる教育虐待をしていたり、DVと虐待が描かれていた。ただしDVや虐待という言葉を明確に使用することはなかった。たしかにこのあたりをはっきりさせると今度は診断が複雑性PTSDではないのかというまたディープな問題に発展していき、PTSD症状の有無や解離症状の有無など考えることが増えていく。実臨床では必ず考えないといけないのだが、このあたりはまだ精神医学の中でもコンセンサスが定まっていないからドラマにするのは難しいのかもしれない。個人的にはBPDとCPTSDは重なっていて、感情調節障害を中心に見たほうがいい人をBPD寄りで見て、フラッシュバックなどのPTSD症状を中心に見たほうがいい人をCPTSD寄りで見る(そのほかにやることは概ね同じような方向)という感じだと思っているが。ドラマではトラウマに関しても医師から心理教育されることはなく、自分で親との問題を課題として設定して、自分の好きなことを大事にし始めたときにトラウマとの関係に自分で気がつくという構成であった。あ、しかしその前に「インナーチャイルド」という言葉で方向づけされていたかもしれない。「インナーチャイルド」概念ってこのドラマで紹介するくらい一般的なのだろうか。よくわからない。
トラウマ治療は安全の確立→トラウマ記憶の処理→人格の統合と進むとハーマンが言ったけれど、最初の安全の確立の部分だけで大きな労力が必要である。私は第2段階に進むやり方がよくわからない。一般臨床では第1段階に専念して、感情と行動が落ち着いてから専門家に繋ぐのがベターなのではないかと思う。BPDもCPTSDも長いプロセスの一部だけに関わるつもりで次の支援者に繋ぐ意識が大事である。
リストカットとODが描かれていたが、治療初期に自殺関連行動をどう減らすかというのが大事な焦点になると思うのだが、やはりそれもドラマではなんとなく全体的に生き方がよくなれば減っていくよねみたいな感じで具体的に扱われた形跡はなかったように思う。弁証法的行動療法はそもそも自殺関連行動が主要な焦点である。ただこのあたりの具体的な方法はかなり高度な行動療法(随伴性コントロール)の知識と技法の応用編なので私もあまりよくわかっていない。勉強しなければならない。
ちなみに劇中でリストカットとODのシーンがあり、当事者は見るとトリガーになってしまうかもしれないのでこの描写を入れたことの是非については色々言われるだろうと思う。
ドラマはドラマなのでお話の中で患者さんの全体像を見せていけばよく、お話の中で「成長」するさまを見せればいいのだけれど、第3話は特にそこへ精神科医療がどう関わるのかという点が薄かったように思う。ダメなわけではなく、そういうドラマだったということで、医療の関与は患者自身には不可視化されてもいいのかもしれない。患者が自分の力で生き始める姿に力をもらう当事者も多いに違いない。ただし医者が患者に自助努力を押し付けてはいけなくて、医者は医者で支援の方法を身につけなければならない。そういう意味で医者はこのドラマを参考にしてはいけないし、ヨワイはやはり治療が下手である。

ドラマshrinkを全話見て総じて言えるのは、その領域の第一人者を監修に呼んで現時点での精神科医の理想的な関与を描いても、こんなにも「弱い」治療しかできないということである。簡単に言うと治療の下手さが全話で目立った。それでも一般的な精神科医のよいところの煮凝りであり、普通はもっともっと貧弱である。精神科医はもっとがんばったほうがいいのだが、あんまりがんばりすぎると私はまたうつ病になってしまうので難しい。

まだ色々書けそうな気がするけれど終わりにする。まとまりがなくてすみません。けど精神科医のこういう目線での感想ってほかにあまりないのではないか。「よく描けてますね」「でも非現実的ですね」とか言って足を引っ張ってないで、もっといい臨床を精神科医なら描いてみたらどうなのよ。などと、つい余計なことを言ってしまう。まあ、たしかに、私がここにずっと書いたようないい臨床をできているかどうかはわからないけど。

新しい枕にして明らかに首の調子がいい。劇的にいい。買ってよかった。

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