日記2024年5月⑨

5月28日
雨模様。子供が車の中で「ぐあいわるい」と言っていて、もしかしたら軽く風邪っぽいかもしれない。鼻が少し出ていた。
仕事の休憩時間に認知行動療法の研修動画を見ていた。認知行動療法は技法やそのパッケージを実行することではなく、認知行動療法の理論に基づいて問題を設定し解決するプロセスを支援する方法であるからたとえば「修正型電気けいれん療法」のように決まった「認知行動療法」があるわけではない。この点が誤解されやすいのだが、しかしガイドラインにも「修正型電気けいれん療法」などと並べられているので何か決まった形の治療法だと捉えられやすいわけで、そのへんは書き方が悪い。たぶん英米などでは生物学的治療を行うphysicianと心理療法を行うtherapistが別個のオフィスを構えていて、そこで行われる行為に名前をつけて保険料を算定する必要があるからこのようになるのだと思う。医療をどう記述するかは保険システムの記述に依存するのだ。そんなことはともかく、研修動画は大変よい内容であり勉強になった。クライアントの感覚にチューニングしていく過程は感動的ですらあり、問題を具体化していく技術がとても認知行動療法的であった。
スーパーでロメインレタスが98円だった。
サイゼリヤで子供が注文票を書いた。幼児の暴れた筆跡だったが、きちんとお店の人に読んでもらえた。私はペペロンチーノとエスカルゴを頼んだ。この組み合わせは初めてだったが悪くなかった。
幼稚園に提出する七夕の短冊を子供が自分で書いた。子供の言ったことを親がお手本として書き、それをひとりで書き写してもらった。これも読める字だった。親用の短冊には「げんき」と書いてもらった。

5月29日
昨晩は強い雨風が唸っていたが、朝には晴れかけていた。子供は冬から制服の短パンの下に長ズボンを穿いていたけれど、今日から短パンだけにした。久々にハイソックスを履かせた。長いと一人では履きにくいみたいである。
尾久先生の『倫理的なサイコパス』を読む。尾久先生の視点には常に治療構造論の影響があり、特に「破れ身」の章はその気配が濃い。言い換えると、診察室、バックヤード、医局、街、自宅、という世界の広がりの中に医者(自分)を位置づける。読めばさまざまな場所を移動するように書かれていることがわかり、そしてそれが「私」の問いに繋がっていく。時空間的移動が自己の仮象へ接続されるのは『偽物論』と相似形である。
本屋lighthouseにお願いしていた子供向けの絵本を取りに行った。下の子が生まれる子供が読んだらよさそうな絵本を選んでもらった。
夜はロメインレタスをミニトマトと焼いたベーコンと和えたサラダとそうめんにした。ミョウガと大葉を添えた。冬は鍋で済ませて夏は素麺か蕎麦でしのげる。
昼間歩き回って疲れたのかもしれない。夕方から調子がいまいちで、ついスマホを見てしまい、特に収穫はない。ダジャレもウケない。尾久先生の『倫理的なサイコパス』を読み終えた。「あとがき」に栗原先生の『治療構造論』への言及があった。私が指摘するまでもなかった。ほとんどの読者はこの本を尾久守侑のエッセイとして読み、その個性をおもしろく味わうのだろう。大変羨ましい。私はどうしても精神科医であるからどうしてもこの本を「精神科医療について考えること」について書かれたものだとして読む。そんなの当たり前じゃないかと思われるかもしれないが、これは内容に何が書いてあるかというよりも私がどこに足場を置いて読むかということで、私はこの本を「尾久守侑が考えたこと」というよりも「精神科医療について考えるということ」に関する本だとまず受け取る。著者のパーソナルな部分を垣間見ることがおもしろさになるというよりもそのパーソナリティが不可欠な舞台装置となって「精神科医療について考えること」が展開する。そういう軸足の変化が避けられない。これは襟を正す方向への変化であるので素直に楽しむことから遠ざかる。かくしておそらくは一番つまらない読み方をする読者になっていく。精神科の臨床ってほんとこういうとこあるよね、うんあるある、みたいな。その論点を治療構造論や転移関係、投影などの主に精神分析の系譜に則ってオーソドックスに考えていき、その必然として著者のパーソナルな論点の開示に至る。そのような「精神科医療について考えること」そのものとして私は読んでしまう。ある意味でメタ精神科医療かもしれない。メタという接頭辞が強すぎればパラ精神科医療という感じだろうか。精神科医療の中身を入れる入れ物の輪郭を象る思索。臨床のバックヤードの思索。やはり「治療構造論」なのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?