日記2024年4月⑨

4月28日
トイストーリーホテルに宿泊した。昨夜、子供が寝ぼけて何度でも大人用の高いベッドに乗ってくるので仕方なく一緒に寝て、動くたびに目を覚まして子供をベッド中央に寄せていたので寝不足である。今日はディズニーシーに行く。昨日からいる父と姉に加えて今日は母が合流した。入場直後の広場で一方にはフラダンス、一方にはドナルドやチップとデールがいて、子供がキャラクターと写真を撮っているうちにフラダンスが終わってしまい、出鼻を挫かれた4歳児の機嫌が初っ端から悪くなったのだが、少ししたらマーチングバンドが出てきて演奏を始めたのですっかり機嫌を取り戻した。こうやって常に次の仕掛けが用意されているのがすごいところである。優先券があったのでトイストーリーマニアに初めて行った。初めてだったので子供がこわいこわいと怖がって、私は子供のさっきからの気分の乱高下にうんざりしてしまったのだが、姉と一緒に乗ることにしたらなんとか乗ることまでこぎつけた。子供と姉が乗車したのを見届け、私が父と二人でトイストーリーマニアを攻略して出口で合流したら、子供はとても嬉しそうに「もういっかい乗る!」と言っていた。ディズニーシーの掌の上で転がされ続けている。午後見たビッグバンドビートというステージがよかった。1920年代から40年代にかけてのスウィングジャズ隆盛の時代のスタンダードナンバーをディズニーキャラクターが歌って踊る。わかりやすいテンポと曲調にアレンジされていて短時間のステージでもとてもノリやすい。この時代はちょうどミッキーマウスが生まれた時期でもあり、そもそもディズニーキャラクターのルーツなのだ。子供も真剣に観ていた。大変印象づけられた様子だった。ディズニーシーは色々なイベントを立ち見で見る機会が多い場所である。急遽出くわしたジャンボリミッキーの公演を見たいと言い出し、人だかりの後ろから見せなければならなかったので、初めて肩車をした。重かった。抱っことは違う負荷が下半身にかかる。その後夕方と夜のショーで計3回肩車をすることになり、大変に疲労したのだが、子供は「またがいたくなる」などと文句を言っていた。感謝の言葉は無いんかい、と咄嗟に思ったりもするが私も本気で子供から感謝を期待したことなどないのでまあよいのである。やや早めに退園し、子供は些細なことで怒って泣いたあと帰りの電車で座ったままくしゃっと崩れて丸まって寝た。必ず最後は寝た子を抱っこで寝床まで届けることになる。今回は泊まりで2日間であるし肩車によって肉体が破壊されてとんでもなく疲れたのだが、家に着くと全部が一件落着してよき思い出に変わるから大したものである。

4月29日
疲れて夫婦で断続的に寝ていた一方子供はずっと元気だった。買ったばかりのトミカを並べていた。夕方ようやく、ご飯くらい外で食べるかということになり、車でロイヤルホストに向かったところ、車に乗って3分で今度は子供がぐっすり寝てしまった。親が寝ているときには意地でも寝ないで親が動き出すと入れ替わりで寝てしまう。安心するのかもしれない。旅行で出た洗濯物を3回に分けて洗濯機にかけた。畳んだ衣類を箪笥にしまい、一日かけて日常に戻った。子供は赤ちゃんが生まれるということを必死で理解しようとしている。「だっこできるかなあ」とか「クリスマスの飾りつけは一緒にできるかなあ」とか言う。胎児心音を聴く機械で音を聴いて、「あかちゃんわらってたよ」と言っていた。この子だけのための家庭ではなくなるという寂しさは多少あるが、この子自身がこうして下の子のための寝床を今から整えているのを見ると一生懸命やらねばなと思う。

4月30日
肩車をした分の筋肉痛が2日遅れでやってきた。家族全員疲れていて眠い。子供はまた玄関を出た途端に「ぐあいわるい」と言ったが、登園してもらって、無理になったらすぐに迎えにいくと約束した。出勤時、病院の敷地内を歩きながら「ベッカムは今の時代だったら右サイドバックだろうな、ベッカムをアタッカーとして使えた時代は幸せだったな」とどうでもいいことを考えていたら、早く来ていた馴染みの患者さんから「おはようございます」と挨拶されて我に帰った。いまだにベッカムを超える美しい軌道のボールを蹴る選手は現れない。そう思いながら挨拶をした。
夕方のファミレスで40歳前後の男性が延々と日本のテレビドラマと男性俳優の話をしていて、誰がかっこいいとか誰が好きだとダサいとか、妙に詳しく語っていた。なぜそうもポンポンと男性俳優の名前と経歴が口から出てくるのか。男が男を男という属性において品定めすることはあまりあからさまにはなされない。ふつうは別の形に変形し、隠蔽しながら行う。話がおもしろいとか、あのドラマがよかったからとか。男の性を透明にして、見る対象から入念に除外するのがお約束である。でもこの二人は性の排除にいとも簡単に失敗していて、あけすけに男の性を語っていることに気づいてもいないようだった。すごく不思議であった。ホモフォビアがごく表面にしか効いていなくてシンプルに女性が不在なホモソーシャルな欲望という感じだろうか。アンビバレントな緊張感がない、男が男を男としてふつうに品定めする場。当人たちには何がおかしいの?と言われるだろう。いや、なにも変ではないのだ。悪くもない。ただ、めずらしい。なんだかとってもめずらしかった。
最近、診療において「待つ」ことについて考えている。「待つ」ことと何もしないことは違う。「待つ」というのはできることをやりつくして、出せる材料を全部出して、その上で「待つしかない」ことであろう。「待つ」には「待ち方」があるということだ。「待つ」ことが成立する状態であれば、余計なことをしなくてもいい。親切心で患者さんをディレクションするとそれはむしろ遠回りや迂回になる。別に迂回しても悪くはないのだが、「待つ」のが直接の道であったりする。「待ち方」だけ整える。そういう外来診察が実際に存在すると思うのだが、なかなか言葉にされない。
子供が、赤ちゃんが生まれたらおとうさんが料理をするときに一緒に遊んであげるよ、と言う。くるまであそんでいいかなあ、とか言う。偉いなあと思う。

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