うつの出口

去年の11月、今までで一番いい具合にうつの海から顔を出し、上陸してしばらく人間界を闊歩していたのだが、気づけばまた首まで水に浸かっていて、今は海中からお届けしております。

上陸と浸水の喩えをしたが、上陸というと自分の意志のように聞こえ、浸水というと自然と海にのまれたように聞こえると思う。主観的には、うつから脱するのとうつに突入するのは非対称なできごとである。

日本の伝統的な精神病理学では、うつ病の発病論に関して、メランコリー親和型の発病状況論をモデルとして、気質と環境との相互作用の中で患者の性格と周囲への関わり方が発展していき特徴的な状況を作るという、素因と環境因を発達的に捉える包括的な視座が発展した。これは人間学的精神病理学の美しい到達点であるし、何より臨床的に有意義である。現代のうつ病像の拡散に対応できていないのはたしかにそうなのだが、それははっきりいって誰もできていないことで、むしろ、メランコリー親和型の臨床を一つの基準点として正確に踏まえることができないままうつ病の変化、社会の変化に流されていることが原因なのではないかという気がする。うつ病の入り口については、このように非常によいモデルが存在し、華々しく展開された。

しかしうつ病の出口、回復論についてはどうだろう。笠原嘉によるうつ病の小精神療法が有名なのは言うまでもないが、内海健が指摘するように、頭に「小」と添えられていることはもっと注目されてよく、これは積極的な精神療法ではないことを明示したものなのだ。内海健は「うつ病の精神療法不可能性」という言葉を使ってうつ病の回復過程への接近の難しさを述べている。医師は、うつ病者の回復を邪魔するものを取り除くことはできるけれども、医師の力で回復に導くのは不可能に近いということだ。うつ病の治療論は休養と薬物療法がほとんどを占め、精神療法として認知行動療法が一定のコンセンサスを得ているとはいえ、それは行動活性化や認知再構成によって非機能的な状態を軽減するという心的機能をモジュール化するアプローチと言えて、もちろん有用なのだけれど、うつ病という体験の一部分しか捉えられていない。そして、発病論におけるうつ病像の明確さに比べて回復像は曖昧で、回復とは何かという問いに答えはない。

私ももちろんうつ病の回復論について答えを持っているわけではないのだが、所感を記しておくと、これは少し繊細な物言いが必要になると思うのだが、近年、うつ病からの回復の「精神的」な面に注目する重要性が増しているのではないかという思いがある。先のメランコリー親和型をモデルとした時代から現在に至るまで、うつ病、特に「内因性」うつ病は身体的な、肉体的な病として扱われてきた。うつ病は安易な心理的共感を寄せ付けず、患者は本人にも腑に落ちない思考や感情の鈍麻を体験し、思考は時に信じられないような妄想を呈し、感情は時に「悲哀不能」という無機質な底を露出させる。医師はうつ病を「精神」の外部たる肉体の病と規定することで、甘えや怠けという誹りから患者を守ってきた。患者は病に飲み込まれた主体性を患者役割の中に見出し、回復のストーリーに入っていく。この戦略は疾病論としても治療論としても正しいのだが、実は、回復期にうつ病から抜け出すストーリーは用意されていない。肉体と環境が整えば「精神」が後追いで適応することを期待されている。かつてはこの適応のための新たなストーリーは、誰も気に留めない自明なものだったのかもしれない。当たり前で平凡なものが力を持っていたから、医師も患者本人も問題にしなかった。それでもきっとよく見れば、患者役割に預けた主体性をもう一度自分の新しいストーリーに帰属させる転換があったはずなのだ。回復の過程にはこのように不連続な点があり、最近はここを超えるための苦労が患者個人に集中してしまっていることが、うつの入り口と出口の非対称性を生んでいるように思う。

ネット上にはうつ病からの回復のためのハウツーが溢れているが、興味深いのはその内容よりも一部の当事者から寄せられる反応で、その中には、簡単に回復を語られると傷つくという声がある。これは一般的には精神疾患へのスティグマ、特にセルフ・スティグマの問題として取り上げられると思うが、これらの傷つきは、うつから抜けられないことへの劣等感だけではなくて、無遠慮に回復のストーリーを押し付けられる暴力性に由来しているのかもしれない。

ネットで回復のストーリーを語る人はどこか余裕がある。語られるハウツーはあえて問題を限定しているような印象を受ける。それはおそらく回復の体験を経た後の必然的な表現なのだと思う。後から振り返るとどうしてもそう再構成されてしまうということで、逆に言えば、そのように問題の問題性が小さくなる、というか、問題だと感じていること自体が大したことではなくなる、というようなことが回復の過程で起こっている。自分を圧倒する「大きなもの」との関係がドライになって、身の回りの「小さなもの」との関係が密になる。そのような「小さな」ストーリーを彼らは語る。

難しいのは、「大きなもの」との関係から「小さなもの」との関係への移行なのだ。それには一度上昇して俯瞰し、また戻ってくるような、垂直の運動が必要だ。昔はそのための機構が社会に備わっていたのかもしれないが、今はどうしたらそれを支援できるのか正直言ってさっぱりわからない。もしかしたら、流行りの「中動態」や「オープンダイアローグ」はヒントになるのかもしれない。新たなストーリーへの移行は生成的で、プロセス的な行為だからだ。でもこの辺は全くの素人なので深入りはやめておく。

うつ病からの回復にはこのようにそれまでと違う主体性が要求される。「ええい、ままよ」という一種の「あきらめ感」である。自分のことは自分で救うしかない。自分の身の回りを自分で繕う。そしてそれが結構大変で、痛みを伴う。だから、私はこうして何かを絞り出すようにして文章を書いている。書いている間は私から何かが生まれている感じがする。飲み込まれていた主体性が顔を出すのだ。

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