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♯20 偽善に注意せよ/ルカによる福音書第12章1-12節【京都大学聖書研究会の記録20】

【2024年1月23日開催】
1月23日の聖研では、ルカによる福音書第12章1節‐12節を読みました。断片の集積のようなテキストで、脈絡を見つけるのがなかなかに困難でしたが、みなさんと話し合っているうちにおぼろげながら、ストーリーが見えてきた気がします。

最初に12:1-12に何が書いてあるかを紹介しておきます。新共同訳あるいは聖書協会共同訳では3つの段落に分けられています。すべてイエスが弟子たちに向かって語った言葉です。第1段落(1-3節)では、「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい」というよく知られたイエスの言葉が記されています。「ファリサイ派の人々のパン種」とは具体的には「偽善」だと述べられています。第2段落(4-7節)では、一転、真に恐れなくてはいけないのは、体を殺すものではなく、地獄に投げ入れることのできる者(神)だ、という話が出てきます。そして第3番目の段落(8-12節)では、迫害時の審問における心構えのような内容が語られ、「人の子の悪口は赦されるが、聖霊を冒瀆する者は赦されない」という謎のような言葉が記されています。

3つの段落のこの並びはルカ独特で、他の共観福音書(マルコ、マタイ)にはありません。ただ段落を構成している諸断片は、マルコやマタイと共通するものが多い。マルコやマタイと共通する断片をルカが独自に並べ替えているといった印象です。たとえば「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい」(12:1)。マルコ(8:15)やマタイ(16:6)でも同趣旨のことが語られています。ただマルコ(8:14-21)、マタイ(16:5-12)では、食糧としてのパンが話題になっているところでこのフレーズが出されるのですが、ルカではその文脈は設定されていません。一事が万事で、このフレーズだけでなく、12:1-12 はルカによる諸断片の組み換えが際立っているように思います。その組み換え、並べ替えの趣旨を掴むのはなかなかに難しい。3つの段落がただ関連なく並んでいるだけ、といった感じを受けてしまいます。

という次第で往生したのですが、「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい」(12:1)と「聖霊を冒瀆する者は赦されない」(12:10)という二つのフレーズをめぐって話し合いをしているうちに、多少見えてきた部分があるように思いますので、その点を中心に報告します。前者(「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい」)はイエス集団内部の問題、後者(「聖霊を冒瀆する者は赦されない」)はイエス集団と外部(統制権力)の関係、という文脈が設定できるのではないか、というのが基本アイディアです。

1 ファリサイ派のパン種

まず「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい」について。12章は「数えきれないほどの群衆が集まって来て」(新共同訳。聖書協会共同訳では「数万人もの群衆が集まって来て」)という描写から始まります。 夥しい数の群衆が集まってきた。その状況下でイエスは弟子たちに「ファリサイ派のパン種に注意せよ」と語ったわけです。

聖研での話し合いの中で、この発言は、イエス集団の中心にいる弟子たちに対し、彼らのエリート主義に警告を発した言葉ではないか、との意見が出ました。夥しい数の群衆のいわば頂点にいる弟子たち。その立ち位置がファリサイ派的な妙な「誇り」を生む温床となる。それに注意せよ。イエスはそう言ったのではないか、というわけです。前回確認したように、ファリサイ派はたしかに「会堂では上席に着くこと、広場では挨拶されることを好む」という点を批判されていました(11:43)。注意すべきパン種の中身が彼らの傲慢、驕り、勘違いということなら、これで筋がとおります。パン種に注意せよ=傲慢、驕り、勘違いに注意せよ、ということなら問題ない。

ですが、いま取り上げている箇所では、パン種の中身は「偽善」となっています。「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である」。そう書いてあります。傲慢、驕り、勘違いの代わりに、ここでは偽善がテーマになっているわけです。となると、11章から続く傲慢、驕り、勘違いの問題はいったん棚上げして、テキストに即して偽善について考えることから始めた方がよさそうです。

「パン種」とは発酵を促す酵母菌のことですが、それと同じように、イエス集団にファリサイ派的なものが入り込むと、一気にその中で増殖し、伝染していく。油断ならない。ここでは偽善がそのようなパン種だというわけです。偽善とは何か。辞書によると、偽善(ヒュポクリシス)とはもともと舞台上の演技を意味する言葉だったらしい。

ファリサイ派は律法に忠実に真面目に生きている。えらい人、立派な人かもしれない。しかしイエスの目には、彼らは舞台の上の人のように見える。彼らは律法に従い、隣人愛(同胞愛)を実践するかもしれない。困っている人を助け、貧しい人を援助するかもしれない。しかしそれはリアルな隣人愛の実践というよりは、「隣人愛の実践」のドラマを演じているようにしか見えない。たしかに真面目に生きている。しかし本当のところは「真面目に生きる」というシナリオどおりのふるまいをしているだけではないか。イエスがファリサイ派のパン種を偽善と語るとき、イエスは彼らをこのように見ていたのではないかと思います。つまりどこまで行っても真実がない。どこまで行っても、リアルがなく、舞台上のふるまいしか出てこない。

ファリサイ派は自分たちのことをどう思っていただろうか。俳優、演技者と考えていただろうか。もしそう考えていたすると、彼ら自身、自らの生き方を演技と割り切って確信犯的にふるまっていたということになります。しかしそのように想定することは困難です。他人を演技でごまかすことはできても、神はごまかせないからです。ファリサイ派は何より神の前で正しく生きることを望んだ。そう考えると、彼らはいわば裏表なく生きていた人々であるように思えてきます。つまりふつうの意味での演技やふりをすることからほど遠い人間、真面目一辺倒の人間、それがファリサイ派であった。そのように言ってよいと思います。

2 イエスの視点:舞台の外から見る

ところがイエスは、裏表なく真面目に律法に忠実に生きている彼らを、舞台の上の人間と見なした。ふつうに考えれば、演技とか舞台とかに縁のない真面目一徹の人々、その彼らが善行芝居の担い手、偽善の担い手だと断じた。なぜなのか。なぜイエスは、ファリサイ派のふるまいを偽善と語ったのか。

イエスの視点から事態を見るために、リアルと舞台のちがいについてふれておきます。ここではとても単純に考えます。リアルな世界で人は生きるが、舞台では人は生きることを演じる。リアルでは怪我をすれば血が流れるが、舞台では、血ではない、血に似せた何かが流れる。痛くもない。そもそも怪我などそこにはない。イエスの目にファリサイ派が舞台上の人物として映ったということは、彼らファリサイ派はほんとうに生きている人、生身の人間とは映らなかった、ということです。

彼らは立派な人、えらい人かもしれない。まちがいなく真面目な人だ。でも血が通っているようには思えない。すぐ傍らに困っている人がいても、その困っている人が舞台上の人でなければ助けようとしない。この場合、「舞台に乗っている」とは、律法の規定に該当する人、というほどの意味です。そういう人であれば助けるに吝かではない。というかむしろ進んで助ける。でも、非該当な人、枠外の人、シナリオに書いていない人、つまり舞台に乗っていない人の場合、その人が実質的にいくら困っていても、まったく無関係です。舞台上の人にはひどく親切だが、舞台外の人には冷淡そのもの。歯牙にもかけない。というか、彼らが存在することにすら気づかない。これがファリサイ派の真面目さの実質だったのではないか。

その有様を舞台外から見ていたら、舞台の上でいくら善行を積んで品行方正にふるまうのを見せつけられても、その善行や品行方正は「舞台上のこと」、格好だけのもの、つまりは偽善にしか見えない。善行を見せつけられ、立派な言説を吐かれても、しらけるだけです。よかったね、善いことをしてみんなに褒められて。舞台上のみんなでお芝居をしている。オレには関係ない、私には関係ない。

いまの話で了解されるように、偽善とここでイエスが言っているのは、律法というシナリオによって舞台を設定し、その舞台の上で律法に規定された善行に励む人のあり方です。むろん(繰り返しですが)ファリサイ派は自分たちのことをそんなふうには思っていない。芝居?舞台?何の話ですか、それ。そう言うに決まっています。彼らは誠心誠意律法に忠実に生きようとしていて、そこには偽りがない。

その彼らのふるまいが舞台上のことと見えてくるのは、舞台の外に立ったときです。そこからファリサイ派を見たときに、彼らは生身の人間ではないように、芝居をしているように見えてくるわけです。舞台の外とは、ファリサイ派など律法中心主義の人々から蛇蝎のごとく嫌われている人たちのいる場所です。福音書の言い方でいえば、罪びとたちつまり律法の規定を無視してしか生き得ない人々のいる場所です。イエスはこの場所に立って、ファリサイ派の非の打ちどころのない真面目な生き方を偽善とよんだのだと思います。

3 「パン種に注意する」とは何に注意することか

ファリサイ派のパン種がいま述べたような内容だとすると、いま確認したように、その存在は当人たちには気づかれていない。ここがポイントです。彼らは偽善などとはつゆほども思っていない。イエスの立場からすると、だからこそ気をつけなくてはいけない。知らぬ間に弟子たちの間に入り込んでしまうかもしれないからです。しかも入り込んだことすら気づかれない。自分たちは相変わらずだと思っている。

こう考えると、ファリサイ派のパン種つまり偽善は相当やっかいです。偽善に気づき、偽善を解毒するには、一つしか方法がない。舞台の上と舞台の外という差異を作らないことです。いつでもどんな時でもフラットにしておく。仲間うちで世界を作り上げ、そこで正しさを競い合いあるいは確認しあい、外が視野に入らぬという状況が、偽善の温床になります。弟子たちが偽善の罠にはまらぬためには、ここが要諦です。はたして彼らは舞台を自ら作ってしまうだろうか。それとも舞台を壊す方向に働くだろうか。

ファリサイ派のパン種は偽善だという指摘の後、「覆われているもので現されないものはない」という話が続きます(12:2-3)。すべてのことがあらわになるというわけです。パン種の理解に引きつけて言えば次のようなことになるでしょうか。ファリサイ派の律法主義を支えた構図、すなわち舞台と舞台の外の区別、そして「舞台の外」の視野外への放逐、といった構図は、今のところは当事者には知られていない。ファリサイ派は舞台の上が世界だと思っている。構図そのものが彼らから隠されている。しかし時が来ればすべてがあらわになる。たしかにキリストの到来(正確に言えば十字架と復活)によってはじめて、すべての人の目にこの構図があらわになった。

4 聖霊を冒瀆する者は赦されない

第1段落のパン種の話から一転して、第2段落(4-7節)、第3段落(8-12節)のテーマは、迫害や審問時の注意点であるように見えます。実際福音書によれば、イエス自身、その生涯の最期に宗教権力や政治権力によって捕縛され、尋問され、処罰を受けたわけですから、そのようなときのことを想定した言説と考えれば、リアリティがあります。ただそれとは別に、この時点、つまりイエスが活動を続けている時点での現実に即して理解することもできそうです。

聖研での話し合いでもそのことへの注意喚起がありました。第1段落と異なり、第2段落、第3段落では、イエス集団を取り囲む外部への対応が語られているのではないか、というご意見です。まさにそのとおりであると思いました。第1段落では、イエス集団内部に伏在する問題が語られました。それはいつ何時その集団に蔓延するかもしれない。それに対し、第2段落、第3段落では、イエス集団VS統制権力という構図が提示されている。イエス集団にはたしかに夥しい数の群衆がついて回るほどの熱気がある。しかし目を少し外に転じると、その熱気とは裏腹に、この集団を厳しい視線でながめる権力がある。イエスの弟子たちはこの構図を把握しておかなくてはならない。

そのような構図の中で、「人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は赦されない」(10節)というフレーズが突然出てきます。このフレーズもまたルカ特有の並べ替えの所産です。マルコ(3:28-29)やマタイ(12:31-32)では、ベルゼブル論争の中に出てきます。イエスの癒しを見た律法学者たちが、「悪霊の頭〔ベルゼブル〕の力で悪霊を追い出している」と難癖をつける場面です。ルカにもこの話は収録されていますが(11:14-23)、「聖霊を冒瀆する者は赦されない」のフレーズはベルゼブル論争からは切り離され、今の箇所に置かれています。マルコでは、このフレーズが出てくる理由が(説得力はともかく)一応解説されています。人々が「彼は汚れた霊に取りつかれている」と言っていたから、という理由です。ですがルカでは、このフレーズの登場は唐突です。なぜそう言うのか、何を指してそう言っているのかは、不明のままです。

ただ前後関係からある程度の想像をすることはできそうです。あくまで想像ですが。官憲から呼び出しを喰らい、彼らの前で質問に答えることを強制される。これが第2段落、第3段落で想定されている状況設定です。ときには「イエスとお前の関係は何か」といったストレートな質問もあるにちがいない。そのような場面を想定してイエスはこう言います。「人々の前で私を告白する者は誰でも、<人の子>もまた神の御使いたちの前でその人について告白するだろう。しかし、人々の面前で私を否む者は、神の御使いたちの面前で否まれるだろう」(8-9節、岩波版訳。田川訳、塚本訳もほぼ同趣旨。上で「私を告白する」と訳されているところは、新共同訳では「わたしを仲間であると言い表す」、聖書協会共同訳では「私を認める」となっている)。

聖研での話し合いの中で、この発言の後半部分「人々の面前で私を否む者は、神の御使いたちの面前で否まれるだろう」は、ペトロの否認(ルカ22:54-62)のことを言っているのではないか、との指摘がありました。イエスの捕縛後、大祭司の中庭にいたペトロは、「この人も一緒にいました」と指摘され、慌てて「わたしはあの人を知らない」と言ったのでした。このペトロのことがどうしても思い出される。まさにそのとおりです。イエスに従う者は、だれでもペトロ的な状況、つまり周囲から問い詰められるといった状況に追いやられる可能性がある。そう考えると、つい心配になる。自分もペトロと同じような発言をしてしまうかもしれない。どうしよう。

イエスはこのような心配を先取りするかたちで、心配無用、そのときには聖霊が言うべきことを教えてくれる、と言います(12節)。ここで聖霊が出てくる。聖霊を冒瀆する、というフレーズは、この聖霊の働きと関係がありそうです。人の子=イエスを愚弄するとか面罵するとかいったことに人は敏感です。けしからんとか言って大いに怒ったりする。しかしそうしたことは本質的な問題ではない。肝心なことは、神の働きつまり聖霊の働きだ。窮地に陥った人間が、そこにおいて神の働きを信じるか否かだ。神が必ず働いてくれることを信じる。それはその当の人間にとって都合のよい働きであるとは限らない。ときにはその人にとって厳しい選択を突きつけられるかもしれない。そうであっても、尚そこに神の働き、神の助けを見る。これがイエスに従う人に求められていることなのだと思います。神の働きを見ようとしないこと、信じようとしないことは、イエスの側からいえば、神の権威に疑いを入れること、つまり冒瀆することにほかならない。それは決定的な罪だ。そのようにイエスは語っているのだと思います。


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