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♯11 マルタとマリア、そしてイエス/ルカによる福音書第10章38-42節【京都大学聖書研究会の記録11】

【2023年10月31日開催】
ルカによる福音書10:38-42を読みました。有名なマルタとマリアの話です。話の筋をさらっておきます。マルタとマリアという姉妹がいた。姉マルタがイエスを家に迎え入れた。マルタはあれこれ接待の準備をしていたが、妹マリアはイエスの話を聴こうとするばかりで、一向に手伝う気配がない。マルタは業を煮やし、マリアに手伝ってくれるよう言ってくれ、とイエスにお願いした。イエスは、マリアは「必要なただ一つのこと」を選んだのだ、それを取り上げてはならない、と言った。こういう話です。

マルタとマリアという姉妹については、マルコ福音書やマタイ福音書には記述がないのですが、ヨハネ福音書11-12章には、大変詳しく描かれています。そこでは、兄弟ラザロの復活という事件の当事者として登場しており、全体として大変信仰深い人物たちとして描写されているように感じます。ヨハネ福音書に出てくるマルタとマリアが、ルカ10:38-42のマルタ・マリアと同一であるか否かについては、確定的な答えがあるわけではないのですが、同一と見なしても、さして大きな問題は生じないようにも感じます。ヨハネの11-12章には、ルカの書いたエピソードは記されていません。今回の箇所は、その意味ではとても貴重な記録です。

テキスト自体はごく短いものですが(あるいは短いがゆえに、でしょうか)、さまざまな想像の余地があり、みなさんとお話をしていて、話題が尽きることがなく、1時間半が短く感じられました。

1 イエスとマルタの親しい関係


このテキストはざっと読むと、イエスはマリアを評価し、接待に心をいっぱいにしているマルタに注意勧告を与えているような印象です。大事なことはイエスの言葉を聴くことであり、食事や接待の準備などに心を煩わせるのは、二義的なことだ。そう言っているように見えます。

ですが、よく読むと、必ずしもそうとばかりは言えないことに気づきます。イエスは明らかにマルタを優しい目で見ている。呼びかけるにあたって、「マルタ、マルタ」と名前を二回繰り返していますが、それはペトロを呼んだときにも見られたしぐさで、関係の親密さを感じさせられます(ルカ福音書22:31「シモン、シモン」)。ある註解書は、この名前の連呼を「感情が激して親愛の情があふれた」と評しています。ともかくイエスはマルタに優しい。だからこそマルタは、思いっきり個人的なことつまり妹を何とかしてくれという個人的な願いをイエスにしたのでしょう。

聖研の場では、「イエスに対してこんな個人的なことを頼むなんて馴れ馴れしすぎる」とおっしゃる方もいて、大変面白かったのですが、ここでは、マルタがそれほどまでにイエスに親近感を抱いていることに注目しておきたいと思います。丸ごとの安心感といってもよい。だからこそ近所のお兄さんに頼む気楽さでイエスに頼みごとをしている。「馴れ馴れしすぎる」という形容もできるかもしれませんが、私は、このマルタの安心感、イエスへの全面信頼をむしろ羨ましいものと感じます。

2 マルタとマリア、評価されたのはどちらか


という次第で、イエスとマルタの間には深い信頼関係のあることが窺えます。イエスはマルタの存在そのものを肯定している。マルタのしている「もてなす」という言葉の原義は「仕える」です。マルタはもてなすことをとおして主イエスに仕えているわけです。そしてイエスはそのことを肯定的に見ている。その一方で、イエスはマリアを褒めています。必要なことは一つであり、マリアはそれを選んだ。取り上げてはならない、と言っている。

となると、いったいどういうことになるか。私たちはマルタのように生きるのと、マリアのように生きるのと、どちらを期待されているのか。心を尽くして応接することが求められているのか、それとも一心にイエスの言葉に耳を傾けることが求められているのか。イエスが、人事に心を費やすこと(マルタ)を否定的に評価し、イエスの言葉を熱心に聴くこと(マリア)を肯定するという構図なら、話は簡単です。マリアのように生きればよい、それをめざしたらよい。しかしテキストそのものは、そういう構図を示してはいないようです。イエスはマリアばかりでなく、マルタをも好意的に受け入れている。となると、途端に、イエスはいったいどちらを私たちに求めているのかという疑問が湧いてきます。

いろいろな把握が可能なのでしょうが、私個人は、マルタとマリアのどちらなのかという問題設定は、このテキストへの接近として適切でないもののように感じます。生き方としてどちらが望ましいかと問われれば、「両方」と言わざるを得ない。イエスもマルタ、マリア双方への肯定的評価というかたちでそのように答えているように見えます。上に述べたとおりです。ここでは生き方の比較が主題ではないと思います。それぞれに固有の価値があると考えた方がよい。そのように考えたうえで、それぞれに固有の価値とは何かを問う。これがこのテキストへの正しい向かい方であるような気がします。

3 聴きたいという気持ちが湧いてきた


固有価値という点では、イエスは専らマリアに言及しています。ですからここでもマリアについて考えます。マリアは「主の足もとに座って」話を聞いていたという。「足もとに座って」とはできるだけ近くに座って、の意味だろうと思います。できるだけ近くに座って、イエスの言葉を一つ残らず聞き取ろう。イエスの口から発せられるどんな言葉も聞き逃すものか。そんな構えで聴いていた姿が想像されます。

マリアは、(失礼のないように)先生の教えはできるだけ近くで聴くべき、とかの世間の教えに沿って動いているわけではありません。そういう賢しらは関係がない。そうではなく、ただ単にイエスの言葉を聞きたいから足元に身を置いているのです。マリアの中で、今ここでイエスの言葉を聞きたいという切実な気持ちが湧いてきた。抑えようもなく湧いてきた。だから足元に行こうと思ったのです。主の言葉を聴きたい。ひと言漏らさず聴きたい。できるだけ近くで聴きたい。だれに強制されたわけでも、だれに教えられたわけでもない。自らのうちから気持ちが滾々と湧き出て、抑えようがない。イエスはこのことをとても大事にすべきことと考えた。だから「取り上げてはならない」と言ったのです。聴こうという気持ちが出てくること、これは人に制御できる事柄ではありません。ただ湧いてくる。それだけです。だからこそそのタイミングを逸してはならない、とイエスは言ったのです。この貴重な瞬間を、至極の時を決して逸してはならない。イエスはそのように語っているのです。

イエスが見ているのは、いまこのときにマリアに起きていることです。いま起きていることは、いまこのときにしか生きようがない。それを生きることが真に生きることにつながる。聴きたいという気持ちが滾々と湧きおこるというかたちで、神がマリアに介入している。それは神からのプレゼントといってもよい。だから決して邪魔してはならない。イエスはそう言っているように思えます。

4 イエスとマルタ


マルタは今日はその経験の中にはいない。いまは応接に大わらわだ。ですが、マルタがこの経験から全的に疎外されているとは考えにくい。イエスの優しい接し方を見ると、マルタにもマリアのような瞬間があったと考える方が合理的であるように思えます。そこに端を発してイエスとの信頼関係が生じた。そういうマルタの経験に訴えるようなかたちで、イエスはいまマリアに起きていることをマルタに語ったのではないかと思います。あなたならわかるだろう、いまマリアに起きていることが。そしてそれを決して取り上げてはならないことが。あなたもかつて経験したことだから。イエスはマルタにそのように語っているように感じます。

先にもふれましたが、今回もみなさんと一緒に聖書を読む楽しさを満喫しました。次回もルカ福音書を読みます。

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