見出し画像

♯24 「何を食べようか」と「富を天に積む」/ルカによる福音書第12章22-34節【京都大学聖書研究会の記録24】

【2024年4月30日開催】
4月30日にはルカによる福音書12:22-34を読みました。「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」で始まるイエスの言葉が、記されているところです。マタイ福音書6章にもほぼ同内容の言葉が記されています。マタイの場合、山上の説教(5-7章)の一部を構成していて、「明日のことは明日自らが思い悩む」という有名なフレーズがそこに含まれています。ルカにはその句はないのですが、その代わり、命と体について語った22-31節(①)の後に、③「富を天に積め」という勧めが記されています(33-34節。マタイでは、この内容は「命/体」の話題の始まる前に置かれている)。この両者(「命/体」と「富を天に」)の間に、②「恐れるな、小さき群れよ」というルカ固有の句が挟まれている(32節)。そういう構成になっています。

ルカ福音書12:22-34に書かれていること

命と体について語る①の内容から簡単に振り返ります。命の問題とはここでは飲食の問題、体の問題とは衣服の問題です。いずれについても、心配はいらない、とイエスは言っている。烏(からす)の事例や野原の花の事例を参照しつつ、自らは何もしないこのような動植物を神は養ってくれている。だから飲食や衣服については何も心配しないで、まず神の国を求めなさい。何が必要なのかは神はすべて知っている。他方、あなたがたは寿命をほんのわずかでも延ばすことすらできないではないか。ならばあなたがたのなすべきことは、神の国を求めることだ。大略以上のようなことをイエスは語っています(22-31節)。

そしてその後、以下のように続きます。あなたがたはいまこの世の圧倒的な権力の前には小さな羊の群れのごとき存在かもしれない、でも恐れるには及ばない、神はあなたがたに神の国を与えることにOKを出した(岩波版や田川訳では「よしとされた」)のだから。これが②です(32節)。

その話の後、「持ち物を売り払って施せ」という命令、そして「天に富を積むこと」の勧めが語られ、「あなたがたの富のあるところにあなたがたの心もある」というフレーズで全体が閉じられています(33-34節、③)。

「何を食べようか、何を飲もうか」と思い悩む人はだれか

聖研の話し合いでは、そもそも①に記されているイエスの言葉は、いったいどのような人に向けて語られているのかが話題になりました。「何を食べようか、何を飲もうかと思い悩む」人として想定されているのはだれなのか。必要最小限の飲食物の確保にも不安のある人たち、つまり日常の飲食にも事欠きがちな生活困窮者たちなのか、それとも、必要なものは一応満たされたうえで、好みあるいは栄養の観点から何を食べるかの選択をしようとしている人たちなのか。

前者であるなら、何を食べようか、の思いは必死でしょう。必死であるがゆえに、「何を心配しているのか、神はあなたの必要をすべて知っている」とのイエスの言葉は、その人の心に刺さるのではないかと思います。9人に1人の子供が貧困と見なされる現代日本にあっては、この意味での必死さを抱えている人は、相当数いると考えられます。その現実は、私たちの社会にとってまちがいなく大きな問題です。ただイエスの言葉がその人たちにだけ向けて語られていると考えると、それに該当しない人たちは、語っているイエスの横を通り過ぎることになってしまう。いまのところ日々安定して食事を摂れている人たちは、オレには/私には関係のない話かと思ってしまう。

生存の必要をすでに満たしている人たち

そこで後者の可能性が浮かび上がる。日々安定的に食事ができる人たちにも、「何を食べようか」問題はあるからです。先に書いたとおりです。ですが、好みや栄養を考えて、「何を食べようか」と思うことが、「思い悩む」つまり心配することにあたるだろうか。それらはごく軽い選択の問題ではないか。必死の思いで悩む人の重みにくらべたら、いつでも手放せる類の似非問題なのではないか。そんな気もします。つまりイエスの言葉はこうした「何を食べようか」には響かないのではないか。

その一方で、生存の必要の問題だけがリアルで、直接の生存にかかわらない問題はすべて虚偽問題と断じてしまうのも、いささか視野が狭すぎるようにも思います。自らの健康のことを考えてサプリメントを愛用する。こういう人は多い。だからこそ巨大な市場が成立し、新規参入するメーカーも後を絶たない。こういう人たちの悩み・心配は、たしかに生存の必要に直接かかわる心配とは次元が違う。それはそうですが、そこには別種の必死さが潜在しているように思います。資本主義社会での欲望は作られたものであることはたしかですが、作られたものなりの切迫感が当事者にはある。そのように思います。

「何を食べようか、何を飲もうか」と思い悩む人はだれか、再び

はじめの問題に戻ります。「何を食べようか、何を飲もうか」と思い悩む人はだれかという問題でした。聖研の話し合いでは、結局のところ上に述べた前者、後者をともに含むと考える方がよい、という結論になったように思います。自分の命や体の心配は、一義的には生存の必要を満たせるか否かの問題ですが、読む側はそこに限定して考える必要はない。生存の必要に直接は関係しなくても、いったん心配の種ができてしまえば、心配はとどまるところを知らない。これをすればあなた自身の命や体にこれだけのよいことがある。そういう情報やそれを実現するモノに人々は群がっています。イエスの言葉は生存の必要にあえいでいる人だけでなく、そのようなお得な情報やモノに「群がる」人々にも向けられている。そのように思います。

一つ補足です。いま「生存の必要にあえいでいる人」と「お得情報に群がる人」を分けて考えましたが、いま現在、生活の心配を免れている人も、いつ何時、そのようになるかわからない。そのことにも心を留めておきたく思います。聖研の話し合いでは、戦時下(つまり80年近く前のアジア・太平洋戦争下)の生活を実感こめて語って下さった方がいました。戦争はいまもなお一個の現実です。戦争が始まってしまえば、安泰はあっという間に吹き飛ぶ。

信仰の薄い(小さい)者たち

生存の必要が満たせるかを考え、今日の食べ物、明日の食べ物のことを心配する。この心配は合理的であり、少しも後ろ指指される類の心配ではないように見えます。他方、生存の必要とは直接関係しないが、自分の命や体のことが気になって仕方がなく、頭から離れない。こちらの方は前回話題になった(「♯23 「神の前に豊か」とは何か」)貪欲の問題に触れるところもあり、突っ込みどころがたくさんあるように思います。

ところがイエスは、生存の必要が満たせるかどうかの合理的な心配をする人も含めて、「何を食べようか」と気に病む態度一般を指して「信仰の薄い(小さい)者たち」と断じています(28節)。合理的な心配をする人にはいささか酷な断定ですが、イエスはともかくそのように述べた。「何を食べようか」という心配はつねに自分自身を中心に置いています。自分命(いのち)です。明日の食べ物をどうしようと日々心配している人も、関節の痛みを感じてグルコサミンを摂取している人も、自分自身に注意の焦点が当たっていることは共通です。

自分自身への注視が、「心配」の特徴であることは明らかだろうと思います。その自分中心的な態度を指して、イエスは「信仰が薄い(小さい)」(オリゴピストス)と言ったわけです。自分に注意が向いている限り、合理的な心配(生活困窮から来る心配)も、貪欲につながりかねない心配(豊かな人の心配)も大差ない。目を天に向けよ。イエスはそう言っているかのようです。「神の国を求めなさい」というイエスの言葉は、自分のことで頭がいっぱいな人に対して、そこから離れよと言っている言葉に聞こえます。自分に注意が向いているのは、あらゆる人間に共通ですから、「信仰の薄い(小さい)者たちよ」という呼びかけは、あらゆる人に向けてイエスが発していると考えられます。このケースでは、「信仰の篤い人」はいないわけです。

神の国を求めること

①の終わりに「神の国を求めなさい」とイエスは語り、続く②で「恐れるな、神はあなたがたに神の国を与えることにOKを出した」と語った。つまり次第に神の国が主題となる話になっていくわけですが、③では、一転、「持ち物を売り払って施せ」という命令が出てくる。冒頭で紹介したとおりです。そしてその「施せ」の命令のすぐ後に、「富を天に積め」という勧めが出てくる。となると、どうしても、施しという善行が、「富を天に積む」の具体例と思えてきます。このように惜しまずに施しをすれば、富を天に積むことになる。

施しをすることが天に富を積むことだ。そして天に富を積むことが大事と言われている。ならば積極的に施しをしよう。そうすれば天に富がどんどん積み上げられていく。主イエスにほめられる状態にどんどんなっていく。いいぞ、この調子だ。

施しが天に富を積むことだと知らされれば、このように、人はすぐ、目的-手段の関係をそこにもち込みます。施しは、天に富を積む(目的)ことを実現するための手段にほかならない。だからせっせと施しをし、天に富を積み上げ、「これで安心」という境地に至る。

つまり自らの安心を求めて施しに熱心になる。いつでも自分自身が中心にある。いまの場合、関心の中心は自分自身の安心です。こうした態度は、イエスが「何を食べようか」問題で批判した自分中心の態度そのものです。「何を食べようか」という心配の場合、内容如何にかかわらず、この心配には、自分への注意がこびりついているのでした。その点がイエスの批判の対象になった。自分を手放して、神の国を求めよ、とイエスは言ったわけです。この批判は、そのまま、今ここで取り上げている、施し→天の富のつながりを狙っている人を直撃します。イエスはその類の人に対しては、再び、神の国を求めよ、と言うにちがいない。

富を天に積む

善行が天の富を積むことにつながる。そのように考えて善行に励む人をイエスが冷ややかに見ていたとすると、ではイエスは私たちに何を勧めたのか。「持ち物を売り払って施せ」と言い、「富を天に積め」と言ったイエスは、それらの言葉で具体的に何を私たちに求めたのか。そのことが当然気になってきます。

①②を終えて、③に入った途端に急に 「持ち物を売り払って施しなさい」 という言葉が出てくるのでした(33節)。 この唐突な言葉は、そのすぐ前に出てくるキーワード「神の国」と結びつけて考えるほかない。「何を食べようか」「何を着ようか」問題に思い悩む人に対して、イエスは「神の国を求めなさい」と言ったのでした。「あなたがたに神の国を与えることにOKを出した」という言葉がその後に続きます。となると、「持ち物を売り払って施しなさい」というのは、神の国の住人の行動なのではないか、という気がしてきます。

「神の国を求めなさい」と言われても、何をしたらよいか見当がつかない。それが大方の反応なのではないかと思います。神の国、神の国、と念じていればよい、という話でもない。聞いている側はなんだか中途半端な気分です。何をどうしようというのか。何か具体的な手がかりがほしい。この気分をとらえて、イエスは「持ち物を売り払って施しなさい」と言ったのではないか。それは自分の「天の富」を蓄えるためのものではない。そのような自分中心の、計算ずくの善行なんかではない。そうではなく、愛にあふれる行為として施しをせよ、とイエスは言ったではないか。なぜか。困っている人に愛のゆえに手を差し伸べる。それこそ神の国の住人に相応しいからです。イエスはそれを勧めた。

「神の国を求めなさい」とは、神の国の住人に相応しいこの行為ができるように祈るということです。もう少し言えば、目の前の困った人に対して愛があふれるように祈るということです。私たちはこの世の住人なので、愛にあふれていない。その現実はたしかにある。イエスは愛の行為を勧めたが、私たちは全然それができない。絶望的にできない。でもだからこそ愛を求め、愛にあふれる行為を求め、祈るのだと思います。

イエスは「富を天に積みなさい」とも語った。これも自分中心に考えて、生きている間に善行を積んでおけば後で安心、といった風に考えると話が変な方向にまっしぐらです。そうではなく、人が神の国の住人としてふるまうことを神は喜ぶ。そのことを富を天に積む、と言っているのだと思います。前回の話ではありませんが、愛があふれれば、神の国は豊かになる。そのことを神は喜ぶ。そうした事態を指して「富を天に積む」と言っているのだと思います。富は結果として与えられる神の国の豊かさにほかならない。それは人が、貯金のようにその増減を意のままにできるものではない。そのように考えます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?