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♯32 悔い改めについてみんなで考えてみた/ルカによる福音書第13章1-9節【京都大学聖書研究会の記録32】

【2024年7月2日開催】

私たちの会は毎回何をしているか

週に一度のペースでこの報告を書き始めたのは、昨年(2023年)の6月頃でした。例会に来ることのできなかった人や、かつてともに聖研で聖書を読んでいて、いまは遠くに住んでいる人たちのことを念頭におきながら、今回はこんなことが話し合われました、こんな会でしたよ、という気楽な報告をするつもりで始めたわけです。最初の 1,2回はほんとうにそんな感じでしたが、実際に書き始めてみると、その作業が私にとって思いのほか面白く、つい長いものを書いたりして今日に至っています。

例会に参加し、その後でこの報告を読んでくださる方はすぐ気づかれると思いますが、ここでは、聖研での話し合いの内容を忠実に再現してはいません。要約とかまとめとかいうものとは無縁の報告です。私個人に示されたものを私個人の責任において書く。そういう方式をとっています。ならばお前ひとりで聖書を読み、書くことと同じではないか。そんな声も聞こえてきそうです。ところがこれがまったくちがう。そのことを以下簡単に説明します。

私たちの会は、毎回はじめにその日の聖書の箇所について私がメモ程度のお話をし、その後でみなさんが自由に意見や疑問を語る。そういう形式で進めています。私もメンバーの一人として意見や疑問を言ったりするわけです。さまざまな意見や疑問が出ます。聖書というのは、古代の文書なので、本気で考えだしたら、わからないことだらけです。そういう率直な疑問が次々に湧いてきますし、それに対する意見もさまざまな方向から提出されます。ときにはまったく理解のしようがなくて、全員で頭を抱え込む、といったこともあります。

毎回の話し合いは、いわばみんなで同じ船に乗り込んで船出するようなものです。目的地も知らずにみんなが海に出ていく。船の中でその回の聖書箇所についてあれこれ話すのですが、そのことをとおして見通しが良くなり、首尾よく目的地らしき陸地に到達することもあれば、闇夜の中を場所もわからず進んでいるといった気分で終わることもあります。正直に言えば、今回も闇夜の中での散会だったな、と思うことの方が多い気がします。

私個人は、そのあと、その回の報告をこうして書くわけですが、闇夜のまま散会したときなど、ほんとうにどう書こうかと大変悩ましい。行く先が見えない。ところが実際に書き始めてみると、意外な展開になります。聖研の話し合いで参加者が語ったことが、すべて残響として残っていて、あれこれ考えているうちに、その残響の中から新しい方向を示すヒントがポンと出てくる。そんなことがよくある。参加者の語った内容に直接答えようとする努力が、推進力になることもあれば、そのような内容の上での影響関係ではなく、文字どおりの残響が、書き進める力につながる場合もあります。私にもよくわからない事情がそこに働いているようで、そこが大変面白い。これは一人で聖書を読んで呻吟していては決して生まれない事態です。先ほどこの報告の経験を「ひとりで聖書を読んで書くのとはまったくちがう」と書きましたが、それはこうした事情を指しています。

今回もそんな調子で2024年7月2日に行われた聖研の報告をしたいと思います。

書いてあること

ルカによる福音書13:1-9を読みました。この箇所は前回同様、12:35 から続く最後の審きの話です。内容を簡単に紹介しておきます。13:1-9は二つのパートに分かれていて、新共同訳では第一のパート(1-5節、以下①)には「悔い改めなければ滅びる」、第二パート(6-9節、以下②)には「「実のならないいちじくの木」のたとえ」という小見出しがそれぞれついています。①も②も、他の福音書にはないルカ固有の内容です。

①ある人がイエスに「ピラトがガリラヤ人の血を犠牲獣の血に混ぜた」と報告してきた。ピラトはローマの総督。相当ひどいことをする人物だったようで、反ローマ運動が盛んなガリラヤの地の人間を惨殺したという事件があったらしい。史実として確かめられる事件ではないようですが、ともかくこんなことをしかねない人物であったことはたしかなようです。そしてその死体の血を犠牲獣の血に混ぜた、という。何だかめちゃくちゃな感じです。しかしイエスはピラトの悪逆ぶりにはふれず、ガリラヤ人の死の方にフォーカスします。この死の理由は何か。このガリラヤ人が死んだのは、彼らが罪深いせいだと思うか。いやちがう。そんなことは決してない。そのように言った後、「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」(新共同訳、以下同)と語ります。その後イエスの方から「シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人」の話が出されます。神殿のそばにシロアムの池があり、そこからエルサレムの町に上水が供給されていたらしい。「塔」はそのための施設だったらしく、その工事現場で人が亡くなる事件があったらしい。ここでも、死んだ人に罪があるわけではないこと、が同じ調子で語られ、その後に「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と言う。

②はイエスの語るたとえ話です。ぶどう園にいちじくの木を植えた人がいた。3年経ってもその木に実がならない。なので、切り倒せ、とその人は言う。園丁がやってきて、1年待ってくれという。木の周りを掘って肥やしをやってみます。もしそれでもだめなら切ってください。

補足します・その1

①でイエスは、自ら設定した問いに答え、その人が罪深いから災難に遭ったのではない、と言います。自分で問いを出し、自分で答えを言っている。しかしそこから先には進まない。人はなぜいわれのない災難を経験するのか。ヨブが提示し、人類を悩まし続けてきたこの問いに対し、イエスは否定的な答えは言う。その人が罪深いからそうなったのではない、と。しかしもう一歩突っ込むことはここではしていない。罪深いゆえに災難に遭ったのでない。それはわかった。ではほんとうの理由は何なのか。これについてイエスはここではスルーしている。

ここでの問題はいわれのない災難そのものではなく、審きだ。ここでイエスの眼中にあるのは、惨殺されたガリラヤ人でも、シロアムの塔の人々でもなく、いわば人類全体だ。人間そのものの審きがここで問われている。災難は、審きのメタファーとして提示されているにとどまる。ガリラヤ人もシロアムの塔の人たちも、突然災難に見舞われた。それと同じだ。審きも突然やってくるのだ。悔い改めなければ滅びしかない。

ガリラヤ人の惨殺とかシロアムの塔の事故死とかの突然の災難がテーマだと勘違いすると、ガリラヤ人もシロアムの塔の人々も、悔い改めなかったからこうなったんだ、と結論することになってしまいます。それはここで語るイエスの本意ではないと思います。ここでのテーマはあくまで最後の審き(前回使用した用語を使えば、「再臨」のときや「主の日」に行われる審き)であって、災難は、その審きを語るための素材でしかない。

補足します・その2

②について。レビ記にいちじくの収穫についてのルールが記されています(19:23-25)。その規定によれば、新たに植えたいちじくは、3年間は「無割礼」と見なし、収穫してはならない。4年目には「聖なるもの」となるので、献げ物に用いることができる。5年目以降はふつうの人でも食用可能。3年間は収穫できないわけですが、ということは、3年の間に実がなることが一般的と考えてよさそうです。とってはならないという以上、実はなっている。実はなっているが、とってはならない。そういう禁止です。そう考えないと、「収穫するな」という禁止が効いてこない。これに対して、イエスのたとえ話に出てくるいちじくは、3年間実がならなかった。相当期待外れだったということになります。

「切り倒せ」という命令には、洗礼者ヨハネの「斧は既に根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(3:9)という厳しい言葉が反響している感じがします。ともかく厳しい言葉です。園丁はこの厳しい刑執行命令に対して、1年間の猶予を提案します。刑そのものがなくなるわけではない。ですが、1年間はその刑の執行を猶予してくれませんか。

日常的な悔い改め

前回同様、今回も審きが主題ですが、今回の箇所の特徴は、「悔い改め」への言及がある点です。悔い改めなければ滅びる。ならば、悔い改めれば滅びない、ということになる。少なくとも、聞いている人間は必ずそのように受け取ります。となる、悔い改めが決定的に重要、という話になります。新約聖書で悔い改め(メタノイア)というのは、「認識と心性の方向性を180度逆転し、「神」の方向を向くこと」(『新約聖書』岩波書店、2004年、補注 用語解説、9頁)と説明されます。

聖研の話し合いでは、上に述べたような信仰上の経験としての悔い改めに行く前に、まず一般的なことについていろいろな意見が出ました。人はどのようなときに、はたと自らの誤りに気づくのか。災難を経験したときに自らの誤りに気づく、致命的な災難ではなく(死んでしまえば元も子もないので)、そこそこの災難のときにそうなる、あるいは逆に、ポジティヴな経験をしたときにこそ人は我が身を振り返るのではないか、など意見はさまざまです。他人に迷惑をかけてしまったときに、反省することしきり、というのもよくある風景だなという気もします。

悔い改めと審きの回避

さて問題は「認識と心性の方向性を180度逆転し、「神」の方向を向くこと」です。この意味での悔い改め、全身の方向転換はどこから来るか。イエスの言葉からそれは明らかであるようにも見えます。いつ来るかわからない審き。審きにおけるあなたの有罪はすでに確定している(裁判を受ける前の有罪判決について、前回確認しました。参照:「♯31 自分で判断し、それぞれの仕方で備える」https://note.com/ytaka1419/n/n78d5710b4866)。何とか有罪判決を避ける方法はないか。ある。それが悔い改めだ。そのようにイエスは言う。「認識と心性の方向性を180度逆転し、「神」の方向を向くこと」ができれば、OK。

審きで有罪判決になったらかなわない。何とかそれを回避しようと思う。真面目に生きよう。いままでの自堕落な生き方を捨て、真面目に神の方向を向いて生きよう。この日々の悔い改めが人を審きから遠ざける。これがイエスの言葉に促された人のごくふつうの反応だと思います。ただ問題はそれがイエスの言う悔い改めなのかということです。「いままでの自堕落な生き方を捨てること」「真面目に生きること」はたしかに立派な決意かもしれない。だがそれは悔い改めなのか。

最後の審きが恐ろしい。避けたい。そこから真面目な、倫理的な生活への志向が生まれる。これはそのとおりだと思います。しかしこの人は、最後の審きを恐れる気持ちを首尾一貫して保持し続けている。最後の審き、これが第一の関心事で、そこからいわば道具的に「真面目に生きること」が選択されている。最後の審きへの恐れはまったく変わっていない。それを避ける有効打が模索され、「真面目に生きること」が選ばれている。これがこの真面目な人の実情だと思います。だとすると、この「真面目に生きること」は、悔い改めとはいえないのではないか。最後の審きへの恐れを抱く自分そのものは、少しも変わっていないからです。相変わらず審きが怖い。ただそれを避ける手立てが見つかったので、それを選んでいる。ここには全身の方向転換的な事態は、まったく生まれていない。

イエスによる赦し

審きへの怖れからは悔い改めは生まれない。ではそれはどこから来るのか。赦される経験からではないか。これが私の考えです。

人間は神から徹底的に離れています。神と人間の間には質的なちがいがある。神の言うことを聞かない。いくら言われても聞かない。神の方を向いていると口で言いつつ、あらぬ方向に心が向かっている。裏切っている。神ならぬものに信を置いている。こうした日常的な経験をとおして、人間が聖なるもの=神から決定的に離れていると実感する。こうしたことはごく一般的な経験で、宗教的な信念を前提しないでも起こりうることだと思います。

ともかく人は本質的に神から離れている。そのことは旧約聖書を貫く一つの大きなテーマでもあります。聖書全体が提示している人間観と言ってもよい。だからこそ審きということが人にリアルに迫ってくる。自分はどこから見ても有罪判決に相応しい。無罪などとんでもない。だからこそ審きが予定されているのだろう。

その一方で、福音書ではイエスの赦しが説かれます。当時罪人とされていた人、穢れと見なされていた人、社会からつまはじきにあっていた人が、イエスによって食事の席に招かれたりしてるわけです。彼らを食事に招くことによって、イエスは彼らがもう罪人でないこと、穢れた人ではないことを語っています。律法によっては彼らは罪人、穢れた人です。その規定は不変で、彼らはどこまで行っても赦されることがない。それはそのとおりだろう。しかしそういう宗教的な規定はこの際どうでもよい。一緒に食事をしよう。食事をしたい。一緒に食事をしたいのだ。この気持ちがイエスの招きの根底にある。彼らと食事をしたいと思う人がこの世にあらわれたこと、これがまったく新しいことなのではないかと思います。そしてこのまったく新しいことが、彼らを新たに定義する。イエスの前で彼らは客です。招かれた客。そこでは罪人という律法上の規定は意味をなさない。罪人という定義は雲散霧消してしまった。イエスによる赦しとはこういうことだろうと思います。

赦しと悔い改め

イエスによって赦されると、何が起きるか。福音書に登場する罪人たちはイエスの愛にふれた。そこでどのような変化が起きるか。福音書の中にはこのことについての情報は少ないので、確たることは言えません。ただ一般論としては次のようなことが考えられるのではないか。愛にふれた人は自らの愛の少なさにどうしても気づいてしまう。特大の愛にふれればふれるほど、自らの愛のなさについての自覚は深まる。二千年前にパレスティナの片隅で催された宴においても、招かれた人の間では同じことが生じたのではないか。イエスの愛は、ありえないほどの愛だった。その愛がありえないほどのものであればあるほど、自らの愛の不在に気づかざるをえない。そして嘆かざるをえない。これこそが悔い改めではないか。

もう一度言います。福音書の罪人たちは、一緒に食事をしたいというイエスの愛にふれた。まったく予想外のこの愛にふれ、自らの愛をめぐって、彼ら自身思っても見なかったほどの転換を経験した。これが悔い改めなのではないか。そう述べたわけです。

いちじくの木、再び

聖研の話し合いの中で、②のたとえ話で語られる園丁のふるまいは、いま述べたイエスの愛のわざとよく似ている、という意見が出ました。園丁は「木の周りを掘って、肥やしをやってみます」と主人に提案するわけです。おそらくそのとおりいちじくの木の世話をしたのでしょう。そのふるまいは、いちじくに対する愛のわざと言ってもよいような気がします。そしてこの愛のわざがいちじくの変容を結果していくかもしれない。園丁はそのように主張したのでした。

たしかにそのとおりかもしれないのですが、しかし、もしそれでも実を結ばなければ、このいちじくは切り倒される運命にあります。つまり審きのプレゼンスはいまなお圧倒的です。聖研の場でも、たしかに赦しによって悔い改めは起きるかもしれないが、起きなければやはり審きそして滅びということになるわけですね、という質問がありました。この質問も、いまなお残る、実を結ばないいちじくの可能性に言及したものと思います。

審きと赦し

念のため、問いを書き直しておきます。特大の愛にふれる経験が悔い改めを生みだす。そう述べました。そして、イエスの言葉によれば、そのようにして悔い改めた人は「滅び」を免れる。だが、もしそうだとすると、特大の愛にふれない人間は、悔い改めに至らないことになる。審き=有罪判決、それに基づく滅びを免れない。イエスはすべての人を招くために来たのではないか。にもかかわらず、審きはいまなお現に存在していると考えるべきなのか。

つまり審きと赦しの関係如何という問題です。この問題に答えるだけの神学的素養は私にはありませんし、この問題に強い興味を抱いているわけでもありません。私自身は、いまなお赦しそのものの方に強い関心を抱いています。この世にキリストが到来したことの意味は、赦しにこそあると考えるからです。その私の立ち位置から「審きと赦しの関係如何」という問題についてあえて語るとすれば、次のようなことになるかと思います。

人は昔も今も神から離れている。徹底して神から顔を背けている。それゆえ審きに値する。滅びに入るといわれても仕方ない。この規定は重要です。ここにはいささかの粉飾もない。私たち人間は一人の例外もなく、裁かれて有罪判決を受けるべき存在です。掛値なく、まちがいなくそうです。ですが、その人間がそのままキリストの招きにあずかっている。キリストたるイエスは、滅びて当然の人間を招いている。イエスは人を「友」とさえ呼んだ。私たちはそのありがたい招きに応じる。裁かれるべき存在であるという事実に震撼しつつ、喜んでイエスの招きに応える。これが私たちの現実なのではないか。そんなふうに考えます。

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