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♯31 自分で判断し、それぞれの仕方で備える/ルカによる福音書第12章54-59節【京都大学聖書研究会の記録31】


【2024年6月25日開催】


ルカによる福音書12:54-59を読みました。この部分、新共同訳では、①54-56節と、②57-59節という二つのパートに分けられていて、①には「時を見分ける」、②には「訴える人と仲直りする」という小見出しがつけられています。

①ではイエスが群衆に向かって、あなたがたは西の空に雲が出ると雨になる、など精確に天候変化の予測をする。天候の変化のしるしは正しく見分けられるわけだ。なのに、どうして「今の時」を見分けることができないのか、と語ります。②でもイエスの話が続きます。イエスははじめに「何が正しいかをどうして自分で判断しないのか」と問います。その後、裁判に向かう二人の人の話になります。そのうちの一人が、イエスの話を聴いている当の人という想定です。そこでイエスは、あなたは裁判所に行ったら有罪判決を受け、牢屋に入れられ、出てこれなくなるのだから、裁判所に着く前にあなたを訴える人と「仲直り」(新共同訳、聖書協会共同訳)するよう努めよ、と言う。

「主の日」という文脈


「今の時」を見分けるとか、裁判所で審きが行われ、有罪判決が下されるとかいった言葉は、①②という二つの話が、いずれも「人の子は思いがけない時に来る」(12:40)というテーマの続きであることを示唆しています。福音書が書かれた時代には、「再臨」(「主の日」とも言われます)への強い関心があったようです。以前の報告でもふれましたが(「♯27「目を覚ましていなさい」という勧めを聞き、みんなで頭を抱えてしまった」)、ルカ福音書の書かれる30年ほど前にパウロは「盗人が夜やってくるように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです」(テサロニケの信徒への手紙一5:2-3、新共同訳、以下同)と書きました。

ルカ福音書では、これまで読んできたように、12:35以降に「再臨」「主の日」が主題化されていました。パウロの言うように、そこでは、審きが行われる。だから「目を覚ましていなさい」という勧めがなされたのでした。今回読んだ12:54-59も、その文脈で読めそうです。

マタイとの対比


今回のテキストは、マタイ福音書に並行箇所があります。①は、マタイ福音書16:2-3、②はマタイ5:25-26にそれぞれ並行記事があるのですが、文脈はまったくちがっています。マタイでは、「主の日」に備えて、という文脈は脱落しています。

①に該当するマタイ16:2-3では、イエスの言葉は、ファリサイ派とサドカイ派からの「天からのしるしを見せてくれ」という要求への応答として記されています。応答の中身はほぼルカと同じですが、最後に「ヨナのしるしのほかには与えられない」と語られ、それが結論となっている感じです。「しるし」がテーマというわけです。②に該当するのは、マタイ5:25-26ですが、それは山上の説教の一部になっています。律法には「殺すな」と書かれているが、それどころではない。兄弟と仲たがいをする者は、それだけでもう地獄行きなのだ。だから何を措いてもまず兄弟と仲直りせよ、和解せよ。これがマタイに記されたイエスの教えです。ここでは兄弟間の諍いという一般的な問題が主題となっているように見えます。

ともかく、マタイには、「主の日」に備えて、という文脈はない。逆に言えば、マタイを参照すると、ルカにおける「主の日」の設定が際立つ。

自分で判断する


冒頭で紹介したように、①54-56節と、②57-59節では、イエスは別の話題を出しています。一方では天候を見分けるのと時を見分けるとの対比が語られ、他方では裁判所に行こうとする二人が語られます。たしかに「主の日」あるいは「再臨」、そこにおける審きへの緊張が一貫していることはたしかですが、話の中身としては、①②はまったく別です。この二つの別々の話題に何かつながりを見つけることはできないか。

無理してつながりを見つけなくてもよいのではないか。二つは別々の話なのだから、それぞれ別個に理解すればそれでよい。たしかにそのスタンスには一理あります。その一方で、54-56節と57-59節はイエスの話として続いているのだから、何かつながりがあると考える方が自然なのではないか。そんなふうにも考えます。ここでは「つながり」を見ようとするこの素朴な見方に与したいと思います。

そうした関心でテキストに接すると、②の冒頭、12:57 にある「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか」というイエスの言葉が浮上してきます。これは直接には②の内容に関連する言葉です。裁判官のもとに行く人間に向かって言われているわけです。裁判官という第三者に判断をゆだねたりしないで、自分で判断せよ。あなたを訴えてきた相手と交渉し、何とか妥協点を探れ。裁判官のところに行ったって、有罪判決を受けるだけなのだから、必死で知恵をひねり出せ。そう言われているわけです。
①で話題にしている人、つまり天候を見分けることはできるが、「今の時」を見分けることはできない人に向かっても、イエスは同じことを語っているのではないか。あなたがたは天候については精確に見分ける。自分で判断しているわけだ。それと同じように、なぜ「今の時」について自分で判断しないのか。「主の日」はいつ来るかわからない。それがいつ来るかを見分けることが、あなたがた一人一人に求められている。

偽善者の意味


そのように考えて前に進むことにします。①では、天候変化を見分けるが、「今の時」を見分けられない人を「偽善者」とよんでいます。「ファリサイ派のパン種に注意せよ。それは偽善だ」(ルカ12:1)というイエスの言葉を私たちはすでに読んでいますので、「偽善」とか「偽善者」という言葉を聞くと、ファリサイ派のことがすぐ浮かんできます。聖研でも、この「偽善者」という言葉を根拠に、今回のこのテキスト自体をファリサイ派批判として読むべき、という意見も出ました。
ただここでは「主の日」についてイエスが語っているという文脈が想定できること、またファリサイ派という固有名がこの箇所では出て来ていないことなどを考えると、ファリサイ派批判は、後景に置いておいた方がよさそうです。

さて偽善者です。「天候変化を見分けるが、「今の時」を見分けられない人」はなぜ偽善者なのか。日本語の偽善者のイメージにあまり引っ張られると、理解が前に進みません。日本語でいう「偽善者」は、うわべだけのよい人間のことです。善人を意図的に演じている人のことです。ルカのこの箇所の「偽善者」は、演じている人、芝居をしている人なのですが、当人はそのようには感じていません。演技しているとは思っていない。ただイエスの目には演じているようにしか見えない。なぜか。真実がそこにあるのにそれを見分けていないからです。その代わりに天候を見分けている。それによって天候の変化を読める人(という価値の高い人)になっている。そのことでみんなからほめられているけれど、それはみんなで芝居しているようなものだ。みんなで真実などないかのようにふるまっているのだから。

「今の時」を見分けること、これが真実を見分けることにほかならない。天候を見分けて、それを互いに顕彰しあっている限り、その努力は、いまそこにある真実をあたかもないかの如くにふるまうことに等しい。イエスの目には真実がはっきり見える。しかし彼らは天候こそが真実だと思っている。そして互いにそのことを話題にし、ほめあっている。そうである以上、イエスの目には、彼らはみんなで真実を見ないふりをする芝居をしているようにしか見えない。だから彼らは偽善者とよばれてしまうのです。

自分で判断することの困難


しかしもしそうだとすると、この場でイエスに「あなたがた」とよばれた人々が「今の時」を見分けることは、絶望的なほど難しいことになります。彼らは、いわば「真実を見ない」ことが構成要件であるような世界を作ってしまっているからです。真実は初めから外に放り出されている。真実を見るという可能性はあらかじめ排除されているわけです。そうである以上、「真実を見ない」という自分たちの現実が気づかれることは、決してない。世間では人々が互いに顕彰しあい、互いの満足を共同で産出しています。そこには何の不足もない。それで完結している。そこには自分で真実を見極める(=判断する)余地がない。

先ほど、①②をとおして「何が正しいかを自分で判断すること」がイエスによって求められている、と述べました。しかしいまの推論ではっきりしたのは、「今の時」を見分ける件で、「何が正しいかを自分で判断すること」はほぼ不可能だという厳しい現実です。どうしたらよいか。

イエスの言葉の誘い


構造の外に出ることは絶望的に難しい。そのとおりですが、イエスによってその構造を芝居と見なす観点が示された点が重要だと思います。偽善者という言葉を聞いた群衆は、自分が所属する世間が「真実を見ない」構造をもっていることを知ります。知ったところで、その構造から出られるわけではない。それはたしかです。しかしイエスの言葉に促されて、「今の時」を見分けようと努力することはできる。あるいは祈ることはできる。そのようなかたちで、世間の芝居に付き合うことから離れ、自分で判断して、「主の日」に備えることはできる。イエスの言葉は、この種の「主の日」への準備を招来するのではないかと思います。「真実を見ない」構造の外に出ることは難しい。しかしイエスの言葉は、自分で判断する精神を「今の時」を見分けようとする方向へと誘っているように思えます。

仲直りする


②に行きます。②では次のような状況が設定されています。あなたは誰かに訴えられ、いまその相手と一緒に裁判官の元に行くところだ。審きの場ではあなたは有罪判決が出される。そして投獄され、そこからは出られない。審きの場に出てしまえばおしまいなので、そこに出ないですむように、あなたを訴えている当の相手と道の途中で仲直りしなさい。自分で判断するとはそういうことだ。

新共同訳や聖書協会共同訳で「仲直りする」と訳されている言葉(アパッラッソー)は、もともと「自由にする」「解放する」といった意味で、転じて「訴訟をやめる」といった意味にもなる言葉のようです。先方がこちらを訴訟から解放してくれる、といったニュアンスでしょうか。だからこの言葉自体には、「仲直り」といった感情的な修復の意味合いはないようです。聖研の話し合いでもこのことについての指摘がありました。原文に忠実に訳せば、「その訴える者から解放されるように努力せよ」(岩波版)ということになるでしょうし、「その人と話をつけるよう努力すべき」という訳もあります(塚本訳)。相手との交渉の中味に踏み込んで「和解」という言葉を使った訳もあります(口語訳、田川訳)。「和解」は「仲直り」と似たニュアンスです。

有罪判決がすでに決まっている裁判


状況の設定はいま見たようなものですが、これから行われるはずの裁判なのに、もうすでに有罪判決が確定しているかのように語られることが不思議です。この有罪判決は、その人の犯した個々の罪状ゆえではないと理解するしかない。有罪を宣告することをその目的とするような裁判というわけです。そこでは個々の罪状ではなく、人間であることそのものが、有罪判決の理由であるような裁判ということになります。人間である以上、すべての被告が有罪。そういう裁判です。

つまりここで想定されている裁判は、「思いがけない時に来る」人の子によってなされる審き、「主の日」の審きということになりそうです。そう解することが、ここで設定されている文脈にも合致します。

訴訟を取り下げてもらうことに何の意味があるか


ところが、そうなると、自分で判断し、自分を訴えている相手から訴訟取り下げを勝ち取ったとしても、結局のところ、さして大きな意味はないことになってしまいます。いつかは審きの日が来るわけですから。訴訟を取り下げさせたら、最後の審判がなくなる、という話なら、筋がとおる。たしかにここでも、訴訟があるから裁判官のところに行くという設定になっています。だから訴訟がなくなれば裁判官のところに行く必要はない。つまり有罪判決を受けなくて済む。しかしそれは束の間のことです。「人間である以上、すべての被告が有罪」の裁判は、いつか必ずやってくる。だからこそ「今の時」を見分けろとイエスは言ったではないか。

となると、訴訟の取り下げを図ることにどんな意味があるのか。イエスはなぜそれを勧めているのか。たしかにこの訴訟取り下げには有用性は乏しい。いま見たとおりです。ですが、訴訟を取り下げてもらうよう交渉するこの人は、明らかに最後の審きを自覚しています。それが気になるがゆえに、いま相手と話し合いをしようとしているわけです。つまりこの人は、この人なりの仕方で、「主の日」の審きへの準備をしているわけです。有罪判決を受け、牢獄に放り込まれる。これが結論であることは変わらないにしろ、今自分にできることを全力でしてみよう。それがイエスの勧める相手との交渉というわけです。

繰り返します。相手と交渉して訴訟を取り下げてもらっても、それゆえに最後の審判がなくなるわけではない。繰り延べはあるかもしれないが、それだけのことだ。つまり最後の審判の存否に何の影響も与えることはできない。しかし、にもかかわらず、人は準備しなくてはならない。精一杯できることを最大限行い、準備する。それがイエスがいまこの場で勧める内容だ。「目を覚ましていなさい」をこのようなかたちで実践することを求めているのかもしれない。

ミスマッチ


いま述べたことで明らかなように、ここでは有罪判決という暗い定めと、いま現在の訴訟回避への努力とのミスマッチが印象的です。将来予定されている有罪判決を自覚したら、投げやりになるかそれを避けようとして妙に熱狂的になったりするか(たとえば「悔い改めよ」と町中で叫ぶ)のどちらかのような気がします。ですが、ここでイエスが勧めているのは、そのどちらでもない。ただ訴訟を回避してもらうよう努力しなさい、というだけです。きわめて日常的で人間的な営為が勧められているわけです。今回の箇所では、それが主の日に対する備えの意味をもつのでした。そのことを心に留めておきたいと思います。

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