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もののあはれ

おはようございます。
気付けば僕の周りで毎日noteを書いているのは自分だけという事実にどこか寂しさを覚える。
張り合っていた頃は自分がいちばん長く続けるのだと競争心を持っていたはずが、今では一人綴り続ける文章からふと目を逸らして「帰ってきて欲しいな」と思うようになった。
失ってから気付く、と書けば聞こえはいいがそれは失うまで気付かないという傲慢だろう。

この写真は以前鳥取県米子市、東山公園駅で撮ったものだ。
今回話すのはこの写真……ではなく写真の話。

最近自分は写真を撮ることが好きだ。
構図を考えるとかいいカメラを使うとかそういう話じゃなく、漠然とした好みの話。
ただスマホを向けて目の前の風景を切り取るのが好きだ。

学生の頃はやるべきことや学業に追われて外の景色なんかに目を向けなかった。
社会人になってからは社会人であるために必死でほかのことに構っている余裕はなかった。

だから多分手が空いた今だからそう思うのかもしれない。
風景、景色から何か言い表せない風情、情緒を感じ取るようになったのはここ1年くらいの話だ。
それまではずっと、ただそこにあるものに対して感情を向けることもなければ、心が動くこともなかった。

歳をとると涙もろくなるとも言われるが、それは人の感性が熟するには長い時間を要するということになるのだろう。
そういった感性の成長をこの身で実感している。

僕がカメラを向ける事物に対して向けているこのなんとも言えない感慨は、「もののあはれ」のたった6字にそのすべてが集約される。
どういう感情なのかもよく分からないこの特別な感慨は、平安時代に物語や歌に語られたそれと同じものなのだという。

歌人はそこに浪漫を感じていたのだろうか。
知識を持つ人間がそれでもなお言い表せないものに直面して、なんとかその風情を、余韻を書き起こそうと試行錯誤したのが和歌なんだろう。

僕の人生で一番評価された作品は詩だった。
となれば僕は詩人ということになるのだろう。
「もののあはれ」を感じることができるようになって、自分は詩人としての新たな一歩を踏み出したのだろうか。果たして自分は踏み出そうと思うのだろうか。

いつか文字にするその時まで、その時感じた感慨を忘れないように、僕はスマホのカメラを構えて瞬間を切り取るのだ。
今回はここまで。

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