歌聖藤圭子の自死の深層(Not 真相)について(抄)
2010年頃圭子さんは、「私は誰にも知られずに、消えてゆくように死んで行きたい‥‥」と吐露しています。娘のヒカルさんが「人間活動」に入って益々母である藤圭子と距離を置くなかでの発言です。この意味は、元夫照實氏とも娘とも関係を持たぬ人として「私は誰にも知られずに、消えてゆくように死んで行きたい‥‥」とのことで、「娘の音楽活動に支障を来さないように配慮された結果」だと言っても過言ではないと思っています。つまり圭子さんも元夫も「娘の音楽活動に支障を来さないよう」圭子さんが行方不明まま「誰にも知られずに、消えてゆくように死んで行」くストーリーを厭わなかったと言うことだったのではと考えています。
「残間里江子ブログ 駄目で元々雨、アラレ」によると、「2年ほど前(2011頃)だったろうか、照實さんと会って、いろんな話をしたのだが、この時夫婦は既に、何回目かの離婚をしていたのだが、「何といってもヒカルの母親だからね。純子(圭子さん)が望むことには出来るだけ応えて、サポート出来ることは、したいと思っているんだよね」と、保護者のような、あたたかな表情で、元妻を語る照實さんにも驚いた」とあります。
しかしその頃、圭子さんは、自死したマンションの中に孤独でいたはずです。圭子さんの最晩年のエピソードとしては、同じマンションの住人によれば、「足元のおぼつかない藤さん(実際は自殺するまで藤とは気づかなかった)を男性が手を引いてエレベータに乗せていた。かなり足腰が弱っている印象だった」と話す。その住民によれば、親子のように見えたという。さらに、「藤圭子さんとは知りませんでしたが、13階に住んでいる女性は普通の主婦っぽくなくて目立ちました。目が少しうつろで、ボ~ッとしているようにも見えました。よく若い男性が手首を引いて「こっち! こっち!」とやっていたので“息子さんかな”と思いました」、また別の50代女性は「マンションの玄関前で、若い男性が「阿部さん、阿部さん」と呼んでいるのを見たことがある」という。M氏(同居人のこと)が普段、藤さんを本名の「阿部」で呼んでいたということは、2人が相当近い関係だったとみていいだろう。ある関係者は、2人の間で金銭的な関係があったとも指摘する。「現場のマンションは3LDKの分譲で6000万~7000万円程度。部屋の名義人はM氏(同居人のこと)だが、資金的な援助をしたのは藤さんといわれている」と報道されています。
この頃の圭子さんの頭にあったのは、どうやって「藤圭子」の終わりを演出し、そのことによって今後も「娘の音楽活動に支障を来さないよう」にするのはどうすればよいかを考えていたのではないかと思っています。
既述のとおり、2013年9月5日づけの「宇多田ヒカル・オフィシャル・サイト」で、「亡くなる直前まで、母は娘である私だけでなく、父とも連絡を取り合っていました。」とコメントしています。時期は、2009年1月以降でケネディ国際空港で米国に差押さえられた「現金」の全額返還が決定し、暫くたった時と思われます。藤圭子と娘は電話で連絡を取り合っていたものの、おそらく会って話をしたかった娘に、藤圭子は「もう会うことはできない」と言ったのではないかと思っています。
「2年ほど前(2011頃)だったろうか、照實さんと会って、いろんな話をしたのだが、この時夫婦は既に、何回目かの離婚をしていたのだが、「何といってもヒカルの母親だからね。純子(圭子さん)が望むことには出来るだけ応えて、サポート出来ることは、したいと思っているんだよね」というのは、娘と直接会わない約束のもとに「電話で連絡」をすることになったのではと推測しています。
2013年9月10日づけのWEBの女性自身は以下のようなエピソードを報じています。
「ヒカルは2002年9月、写真家で映画監督の紀里谷和明氏(45才)と結婚。しかし4年半の結婚生活の後、2007年3月に離婚。その裏にはヒカルの父・照實氏(65才)との存在もあったことは有名な話だ。
「紀里谷さんがスタッフに指示を出したそばから、照實さんが全く反対の意見を口出しするようになってトラブルになることも増えたようです。ヒカルさんは夫と父親の間で板挟み状態でした」(芸能関係者)。そうして再び父とともに音楽活動を再開させたヒカルだったが、彼女の心は限界に達していた。北アルプスの麓、長野県安曇野市の宿泊施設をヒカルが訪れたのはそんな時だった。
「あの宿は自然治癒力を高めるための朝の散歩やヨガなどのプログラムがあることから、心に傷を抱えた人や末期のがんで苦しんでいる人などが多いんだそうです。ヒカルさんが来たことも話題になっていましたよ」(地元の住民)そして、ヒカルは福田(天人)さんと出会う。彼はその宿泊施設のオーナーの息子だったのだ。
外出することはほとんどなく、買い物も事務所のスタッフに頼むばかり。食べ物にも気を使うことはない。ヒカルの生活を耳にした福田さんは、「もっと外に出て、外の空気を吸ったほうがいい」「自然食品を食べたほうがいいよ」と彼女にアドバイスを送ったという。これまで誰からも言われたことのない親身な言葉にヒカルはすぐに惹かれていった。
2009年9月には同棲が報じられたふたり。彼の献身で元気を取り戻したからこそ、ヒカルは「人間活動に専念するため」と歌手活動の休止を発表した。
「親の真実は亡くなってから知ることが多いというけど生きてるうちに知っておきたい」――発表直後のラジオに出演したヒカルはこんな言葉を口にした。
「ヒカルはこれまで家族に対して目を背けて、音楽に生きてきました。でもそれでは、結局、自分が新しい家族を持ったとしても、同じことの繰り返しになります。それまで父の言葉のままに、思い込んでいたことを一度リセットして向き合おうと思ったんです」(ヒカルの知人)
いちばん身近な存在を疑うこと。身を切るようにつらい作業だったが、そうして初めて見えることは少なくなかった。
「ずっと考えないようにして生きてきたことの答を改めて問うて見ると、父親への疑心が生まれてきたそうです。父親は母親のことを悪く言っていたが、自分のことをいちばんに考えてくれたのは母親の方ではなかったのか。
あんなによくしてくれた祖母が疎遠になったまま死んで、墓参りにさえ行けないのはなぜなのか。そのまま日本にいて仕事を続けていたら、どうしても父親とかかわらざるをえません。ロンドン移住は照實さんと距離を置くためだったそうです」(前出・ヒカルの知人)
そして、福田さんもまた彼女の後を追った。そして、ヒカルが今夢見ているのが、彼の父親が経営する宿泊施設の裏手にある彼の実家の隣に家を建てることだった。
彼女にとってはそこで、恋人と新しい家族を持ち、いつの日か、母親を迎え入れることが、生きる希望だったのだろう。
「天人さんのおばあちゃんが“ヒカルちゃんがここを気に入って、ゆくゆくはここに家を建てたいというから、家の木を切ったのよ”って嬉しそうに話していましたよ。天人さんは去年、ヒカルさんから逆プロポーズされたんだそうです」(前出・地元の住民)」という言う話しでした。
2010年12月4日、午後5時30分、肝臓がんのため都内の病院で圭子さんの実母竹山澄子さん死去します。しかしながら、圭子さんは葬儀に出ていません。80歳でした。また、2013年3月18日、恩師 石坂まさを氏(いしざか まさを、本名:澤ノ井 龍二)が死去します。圭子さんは、ここでも葬儀に出ていません。71歳でした。
娘のヒカルさんは、2013年9月5日づけの宇多田ヒカルの公式サイトである「HIKARU UTADA OFFICIAL WEBSITE | MESSAGE from Hikki」で「母は、身内や知人の葬儀には出席せず、自分の時間、自分のやり方でお祈りを捧げる、というポリシーの持ち主でした。葬儀や告別式といったイベントを好むような人ではなかったことを、母をよく知る者、母のためを思う方なら、ご理解してくださることと思います」と綴っています。このことは明らかに事実と異なっています。
一例を挙げます。1988年7月19日恩師石坂まさをの母千恵が逝去。その葬儀に藤圭子は参列しています。ヒカル5歳のときです。また、圭子さんは、1993年6月猪俣公章特別番組に駆けつけ、「女のブルース」や「京都から博多まで」を涙ながらに歌っています。ですから、「母は、身内や知人の葬儀には出席せず、自分の時間、自分のやり方でお祈りを捧げる、というポリシーの持ち主でした」というのは、全くのでっち上げです。
何故こんなでっち上げをしたかというと、圭子さんの葬送の仕方が余りにも冷たい仕打ちに見えてしまったためです。葬式を行わず焼骨に散骨でお墓への納骨すらなかったのです。何故このような葬送になったかという理由付けに「遺言書」と「母は、身内や知人の葬儀には出席せず、自分の時間、自分のやり方でお祈りを捧げる、というポリシーの持ち主でした」ということを述べ、あつかましくも、「母をよく知る者、母のためを思う方なら、ご理解してくださることと思います」と理解を求めたのです。
「遺言書」については内容には触れず、娘のヒカルさんは2013年9月5日づけの公式ホームページで「母の本名が誤って報道されていました。阿部純子ではなく、宇多田純子です。父と離婚後も、母は旧姓の阿部ではなく宇多田姓を名乗ることを希望し、籍も父の籍においたままでした」とし、「遺書はなかったと報道されていますが、今年の始めにしたためられた遺言書はありました。他の解釈の余地の無い、母らしい、非常に率直な遺言書です」と述べています。(HIKARU UTADA OFFICIAL WEBSITE | MESSAGE from Hikkiより)
しかし遺言書なり遺書なりについては、2013年8月22日の圭子の自死時点では確認できていませんでした。しかしながら、所謂「遺言書」の葬送の仕方について明確になるのは、同月23日昼の午後になります。「圭子さんの棺は、照實氏とともに東京・新宿署を出て50分後、目黒区碑文谷の葬祭場に到着し、搬入から1時間半経過した午後2時半過ぎ、葬儀社の男性が宇多田氏の伝言として次の3点を取材陣に伝えましたた。(1)故人の遺志により面会はご遠慮いただきたい。(2)葬儀は行わない。火葬のみとする。(3)出棺の日程は未定。葬儀社によると「ご遺体は安置されていますが、祭壇などは設けていません。ご家族だけが中に入ることになると思います」と。また、娘のヒカルさんは、所属レコード会社によると「活動停止の状態にあるため所在は確認できていません。今後の行動やコメントについても分かりません」とコメントしています。
ここでもう娘さんが確認する前に葬送の仕方を照實氏の伝言によって「遺言書」の一端が内容が明らかにされています。ですから「遺言書」があったとしたら、あらかじめ照實氏が把握していたことになります。また、「遺言書」の大きな柱となる「財産相続」には一切触れられていませんので本当にあったのかどうかも分かりません。
仮に葬送の方法がメインの「遺言書」があったとして、書かれたのは春頃で、圭子さんが自死された夏の終わりまでこの「遺言書」がどのような形で保管され管理され、照實氏に伝わったかは明確ではないのです。
圭子さんが春頃に「遺言書」を書いたとしたら、恩師 石坂まさを氏の死去に関連してることも想像できます。いずれにしても不自然ですが、「娘の音楽活動に支障を来さないように配慮された結果」、行方不明まま「誰にも知られずに、消えてゆくように死んで行」くストーリーとして考えて行くと、意味を持つアイテムとしての「遺言書」は、この事件と事後処理の正当性を述べていることにつきます。実に作為的なものです。
圭子さんの葬送の方法について、娘さんは妙なことを告げています。2013年9月18日、圭子さんの実兄の藤三郎(本名阿部博)氏に届いた…手紙には、「母の意志に沿い通夜葬儀納骨は行わず なお且つ母の強い指示で遺骨は散骨させて頂きました」とあったと言います。「母の強い指示」で散骨したと言うことは、圭子さんが生前娘さんに自らの遺骨を散骨させたという意味に取れます。
それは何日のことかと言うと、そのヒントは幾つかあります。
2014年2月3日の(MESSAGE from Hikki - 宇多田ヒカル)の中では、「近々、結婚することになります。結婚式などを静かに済ませた後にお知らせできればと考えていましたが、既に問い合わせがあり噂になっているようなのでこのタイミングでご報告させていただきます。自分でも意外でちょっと笑ってしまいますが、相手はイタリア人の男性です」と述べたが、追伸のように「あと…喪中であるため、結婚を延期すべきか悩みましたが、母との最後の会話の中で彼の話をした際、「こんなに嬉しそうな母の声を聴くのは何年ぶりだろう」と思うほど喜んでくれていたので、きっと母も応援してくれてると信じて予定通りに結婚を進めることにしました」と書いています。
一方で、2022年6月7日のVogueでの「最新アルバム『BADモード』、母、息子、そして音楽と自分……。ジェーン・スーのインタビュー」によると、娘のヒカルさんは、「母親が亡くなるちょっと前、それまでほとんどこっちからは連絡できない状態で、向こうからもほとんどなかったんですが、急に連絡が増えた時期があって。そこで、カウンセリングを受けないと私もダメになっちゃいそうというか、持っていかれちゃうなって、友達にカウンセラーを紹介してもらったんです。でも、カウンセラーに会いに行った日に母が亡くなっちゃったんですね」と言っています。
つまり娘のヒカルさんと圭子さんの「最後の会話」で再婚相手の話しをしたら圭子さんが喜び、同じ会話の中で「葬送について散骨を指示」されたと考えることは普通のことと思われます。時期も圭子さんの死(2013年8月22日(木))から遡ること「友達にカウンセラーを紹介してもらったんです。でも、カウンセラーに会いに行った日」と言うことを考えあわせると、一週間前の2013年8月15日頃が有力です。
また、元夫の宇多田照實氏と圭子さんの会話は、2013年8月26日づけのコメントで、「最後に僕が純子と会話をしたのは今年の8月15日でした。純子からでした。この時は珍しく明るい口調で、元気そうな純子の声でした。約8分間、世間話を含め、お願いごとを何件か受け、了承し電話を切りました。その8日後の自殺となってしまいました。純子として覚悟の上での投身自殺だったのか、衝動的に飛び降りてしまったのか、今となっては知りようがありません。最終的に僕から救いの手を差し伸べられなかった悔しさ、大切な人間を失った悲しさでいっぱいです」と述べています。恐らく宇多田照實氏にも「葬送について(散骨を含め)の指示」お伝えていたのではと思われます。
だからこそ、目黒区碑文谷の葬祭場で「圭子さんの棺...の搬入から1時間半経過した午後2時半過ぎ、葬儀社の男性が宇多田氏の伝言として次の3点を取材陣に伝えました。(1)故人の遺志により面会はご遠慮いただきたい。(2)葬儀は行わない。火葬のみとする。(3)出棺の日程は未定。葬儀社によると「ご遺体は安置されていますが、祭壇などは設けていません。ご家族だけが中に入ることになると思います」と。また、娘の宇多田ヒカルさんは、所属レコード会社によると「活動停止の状態にあるため所在は確認できていません。今後の行動やコメントについても分かりません」とコメントできたのだと思います。つまり照實氏も娘のヒカルさんも、圭子さんの自死を告げられていましたが、「精神の病」のせいだと高を括っていたものが現実になったものと考えられます。その結果、「葬送について(散骨を含め)の指示」に従って忠実に葬送を行ったものと考えられます。
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