藤圭子 ーRA U.の時代 

 1990年に 藤圭子本人が(RA U)、宇多田照實(SKING U)、宇多田ヒカル(H。IKASO U)の家族3人ユニット「U³」(キュービック・ユー)を結成をしていた。
 作曲家・平尾昌晃は、藤圭子のあまりの熱意に驚いた記憶がある。かつて圭子のマネジャーだった成田忠幸は、その姿に石坂まさをを重ねた。 「7社から断られた末にようやくデビューしたのが藤圭子。まだ幼いということでヒカルちゃんも相手にされなかったけど、あの必死な売り込みは同じだね」 。榎本はデモテープを聴いた。娘のボーカルのバックに圭子のコーラスが入っているが、どこかしら違和感を覚えた。 「歌はラテンロックだけど、彼女のコーラスに微妙なビブラートがついている。それだと民謡歌手がバックにいるみたいだって指摘したんですよ」と。

 ヒカルさんが9歳の1992年1月に圭子さんと照實氏は4回目の離婚をしますが8月には再婚。同じ年の夏、藤圭子から石坂まさを氏に電話があり青山一丁目にあるプレジデントホテルのロービーで会っています。…「石坂先生、光(9歳)を中心に、わたしと宇多田さんで、「U³」(キュービック・ユー)というチームを組んでいるのよ」…「石坂先生、この子天才なのよ。最高なんだから、光を中心にファミリーで新しい音楽を作ってきっと勝負してみせるから」…「光が歌ったのよ」と一本のテープを見せた。が、石坂は受け取らなかった」。
 その様子について石坂氏は、藤圭子がヒカルの歌をぜひ聴いて欲しいと迫り、ヒカルがいかに天才であるか、熱弁をふるって「「石坂先生、ヒカルって天才なのよ。最高なんだから、ヒカルを中心にファミリーで新しい音楽を作ってきっと勝負してみせるから」と半分つっかるように責められてしまった。」と石坂まさを氏の著書「宇多田ヒカル母娘物語」に書かれています。

 1993年ヒカルさん10歳のときに、夫の照實とともに有限会社ユースリー・ミュージックを資本金300万円で東京都杉並区に設立し、取締役社長に照實氏、圭子さんも自らも取締役になっています。9月17日に当時10歳の宇多田ヒカルもボーカルとして参加。
 前年の1992年に米国で全曲がロック調の曲で占められているアルバム「STAR」を発表する予定でしたが、おそらく資金が枯渇したためと思われますが、日本に帰国して翌年に国内で日本語に歌詞を変えてU³名義(しかし「U³」は、タイプしずらいため三乗を展開して)キュービックU)で発表しています。
 1993年9月17日、家族音楽ユニット「U³」を結成してセンチュリーレコードと契約し、アルバム「STAR」を発表します。
アルバム「STAR」
1.流されてゆくなら (作詞・作曲:RA U.)
2.子供たちの歌が聞こえる (作詞・作曲:RA U. / 編曲:平岩嘉信)
3.愛しているよ、あの日の君を (作詞・作曲:RA U. / 編曲:J.BRALOWER & JEFF BROVO)
4.生まれた時からI LOVE YOU (作詞・作曲:RA U. & SKING U.)
5.THANK YOU (作詞:RA U. & H°IKASO U. / 作曲:RA U. / 編曲:平岩嘉信)
6.生きることを教えてくれた (作詞:RA U. / 作曲:RA U. & SKING U. / 編曲:平岩嘉信)
7.婚約解消 (作詞・作曲:RA U. / 編曲:平岩嘉信)
8.ニューヨーク・セレナーデ (作詞・作曲:RA U. & SKING U. / 編曲:平岩嘉信)
9.やり直せる人生 (作詞・作曲:RA U.)
10.THANK YOU (MAXI Version)
11.子供たちの歌が聞こえる (MAXI Version)

1994年4月21日 酒に酔うほど/婚約解消 作詞作曲 Ra U/ Ra U & Sking U 規格品番 CEDC-10390
1995年になると宇多田ヒカルが母親の代わりにメインボーカルとなり、「cubic U」名義としてインディーズのレコードレーベル(EMI USA)から作品をヨーロッパやアメリカ合衆国で発売し、翌年にかけて合計3枚のレコードと1枚のマキシシングルを発表。
 アメリカで「Cubic U」(日本デビュー前の初期の宇多田ヒカルの別名儀)としてシングル「Close To You」、My Little Lover Boy、次いでアルバム『Precious』を発表します。しかし、発売を予定していた「EMI USA」はなくなり、これらの作品も宙ぶらりんになっしまいます。ヒカルは、「別になんとも思わなかった。なにも変わらなかった」と言い、ただ、「制作に関わった人間とお金やら権利やらのトラブルがいくつも起きて、社会勉強になった。憤りはなく、そういう人たちはそういう人たちなんだ、と思った。父も母も甘いな、とちょっと思った」と言っています。

 1996年頃だった。新宿・歌舞伎町の台湾料理屋で夫の宇多田照實と藤圭子と彼女を世に出した石坂まさをと、「4人で会ったんだ。2時間ぐらいだったな。その時、デモテープを聴かされたけど、私は魅力を感じなかった。私は怨み歌の藤圭子が好きですから、そういうものではなかったから。本人は、演歌から転換したかったんだと思うけど、私は力を感じなかった。中途半端な歌謡曲って感じで。石坂さんも乗らなかった。ヒカルちゃんについては「この子はアメリカで歌の勉強をしているけれど、絶対にデビューするから」と自信満々に自慢していたけど、結局は石坂さんに自分を売り込みに来たんだよ。(大下英治氏談) 」と語っています。

1996年9月25日 冷たい月/ゴールデン・エラ 作詞作曲 Ra U & Sking U 規格品番 CRDN-347を日本クラウンから藤圭子 with cubic Uとしてシングル「冷たい月 〜泣かないで〜」を発売。

1997年の秋、一度は潰えたと思っていた「EMI USA」で発売した「Cubic U」(宇多田ヒカルの前の芸名)として発売したシングル「Close To You」(「遙かなる影」のカバー)、アルバム『Precious』の曲が、当時、東芝EMIのプロデューサーディレクターの三宅彰の目にとまり、有限会社ユースリー・ミュージックの取締役社長でヒカルの父宇多田照實氏にヒカルの日本デビューを持ち掛けます。

1998年1月、「Cubic U」(日本デビュー前の初期の宇多田ヒカルの別名儀)としてアルバム『Precious』を 東芝EMIから発売。

  1. 「My Little Lover Boy」 Cubic U and Charlene Harrison

  2. 「Lullaby」 cubic U and Charlene Harrison

  3. 「How Ya Doin'」 Cubic U, Michael C.Warner and Charlene Harrison

  4. 「I Don't Love You」 Cubic U and Charlene Harrison

  5. 「Promise」 Cubic U, Michael C.Warner and Charlene Harrison

  6. 「Ticket 4 Two」 Cubic U and Charlene Harrison

  7. 「Take A Little While」 Cubic U, Michael C.Warner and Charlene Harrison

  8. 「100 Reasons Why」 Cubic U and Charlene Harrison

  9. 「Work Things Out」 Cubic U and Michael C.Warner

  10. 「Close To You」(カーペンターズの楽曲のカヴァー) Hal David, Burt Bacharach

  11. 「Precious Love」(ボーナス・トラック) cubic U and Charlene Harrison

  12. 「How Ya Doin' (Rap Version)」 Cubic U, Michael C.Warner and Charlene Harrison

1997年10月22日 男と女/抱いて… 作詞作曲 Ra U/ Ra U & Sking U 規格品番 CRDN-511

 こうした試行錯誤の日々を経て、98年にメジャーデビューした宇多田ヒカルは、同年末にデビューシングル「Automatic/time will tell」は、ダブルミリオンの大ヒットを記録。1stアルバム『First Love』は累計売上枚数765万枚を超え(オリコン調べ)、日本国内の歴代アルバムセールス1位になたちまち時代の寵児となります。しかし、やがて夫・照實の意向もあり、藤圭子は完全に表舞台から消えてゆくのである──。

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