浪曲子守歌と藤圭子

 藤圭子の浪曲子守歌を聞いて、その偉大さを感じ彼女の死に改めて深い哀しみをおぼえた。彼女のささやかな希望、三人での「新しい歌の旅」を奪われて大絶望の中で死んでいった彼女の思いを考えると私は切なくてならない。

 さて、今日は「藤圭子がやったのは ”芸能” ですが、宇多田ヒカルがやったのは ”芸術” と言ってもいいでしょう」とう考え方について意見を述べてみたい。
 以前文化庁長官をなさった作家の三浦朱門氏の次の言葉を引用したい。「日本人は、欧米由来のものを芸術と言い、日本の伝統のものを芸能と言い分けて、欧米由来のものを一段高くいう習慣がある。」いうものだ。また、「日本伝統芸能(にほんでんとうげいのう)は、日本に古くからあった芸術と技能の汎称」(Wikipediaからの引用)なのだ。

 もう少し論理的に説明したい。まず芸術とは何かという問題を考えて見たい。人は言う、「観客が存在して初めて成り立つのが芸能。鑑賞者がいてもいなくても成立しているものが芸術」あると。これだけで区別ができのであろうか。
 英語のアート「art」は基本的には「芸術」を意味し、語源であるラテン語のアルス「ars」の基本義とぴったり対応しない。「 ars 」はギリシア語のテクネー に相当し、本来は「芸術」というより、自然に対置される人間の「技」や「技術」を意味する言葉であった。
 さらに日本語における「芸術」という訳語は、明治時代に西周によって「リベラル・アーツ(英: liberal arts)」の訳語として用いられたことに由来する。「リベラル・アーツ(英: liberal arts)」とは何か?現代では、「学士課程において、人文科学・社会科学・自然科学の基礎分野 (disciplines) を横断的に教育する科目群・教育プログラム」に与えられた名称なのである。 

 一方「芸能」とは何か?「日本伝統芸能(にほんでんとうげいのう)は、日本に古くからあった芸術と技能の汎称。特定階級または大衆の教養や娯楽、儀式や祭事などを催す際に付随して行動化されたもの、または行事化したものを特定の形式に系統化して伝承または廃絶された、有形無形のものを言う。詩歌・音楽・舞踊・絵画・工芸・芸道などがある」(Wikipediaからの引用)。無理矢理「芸能」を英訳すると「Performing Arts」となる。「Perform」は、1つは仕事・義務などを「実行する、果たす」といったdoに近い意味である。背景にあるニュアンスとしては求められていた役割や期待されていた能力などを発揮するといった意味で、機械、人間ともに使われる。
 言ってみれば「芸術」も「芸能」も自然や人間の営みに対置される人間の「技」や「技術」を意味する言葉であるのだから、「藤圭子がやったのは ”芸能” ですが、宇多田ヒカルがやったのは ”芸術” と言ってもいいでしょう」ということは、論理学的には何の意味を持たないのだ。これらの「勘違い」は、明治維新以来の西洋志向、西洋コンプレックスが原因なのだと言い切っても良いのではないか。

 だから「art」を人間の身体をもって表現するひと(表現者)を「アーティスト」であり、さらに「腕の立つ職人」と言い換えれば、演歌歌手も浪曲師もジャズシンガーもみな「アーティスト」であり、その優れた「職人」は当然ひとびとに尊敬されて当然でなのである。
 「腕の立つ職人」、例えば書家としての弘法大師に限って考えてみても、「どんな筆を持っている」かではなく「どのような字が書けるか」にあるのであり、「様々な用途との筆を持っている」ことで書家の善し悪しがきまるものではないのだ。(「弘法筆を選ばず」)

 最後に「浪曲子守歌と藤圭子」だが、一節太郎のオリジナルと比べても勝るとも劣らない歌いっぷりには驚嘆するほかはなかった。それも若干22歳の藤圭子が情感たっぷりに歌うと、情景が目に浮かぶようで、信じられないスゴミをもって胸に突き刺るのだ。こんな「腕の立つ職人」、天才歌手はそういない。
 私は藤圭子の娘である宇多田ヒカルの音楽世界を認めるのだが、それについては、藤圭子の死後の楽曲に「母への憐憫の情と母親を亡くした哀しみと追慕の心情が核となった」情感が創り出した音楽に「芸術性」を見るだけで、それまでは「作詞・作曲はもちろん、編曲もオーケストレーションまで含めて、自分(宇多田ヒカル)一人で行なっています。音楽的才能。」に興味をもつ程度であった。
藤圭子 浪曲子守唄
https://www.youtube.com/watch?v=83qEZSrKBOo

 それにしても、両親と娘の三人での「新しい歌の旅」をしていたらと思うと残念でならない。

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