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札バン研究所「あずまりゅーた東京初公演レポート」


こちら、札バン研究所

札幌を拠点とするバンド、略して札バン。

その音楽を研究する今回は、バンドではなく、ソロアーティスト。アコギ一本で自作曲を弾き語る、1994年生まれ、あずまりゅーた。

彼がコロナ状況下の2021年6月、キャリア初となる東阪ツアーを敢行した。その東京公演をレポートする。


きっかけは配信フェス

2020年、夏。札幌もまた多くのライブハウスが危機的状況にある中で、「Roomフェス」という配信限定のイベントが行われた。

複数の会場で、さまざまなミュージシャンのステージが同時進行する。各ステージをバーチャルな「Room=部屋」に見立て、リスナーは自由に行き来できる。

そのひとつ、札幌で活動するアイドル/声優・Lalamiの部屋にゲストとして招かれた、ウェーブのかかった長髪、黒っぽい服装の若者。それが初めて見る、あずまりゅーたというアーティストだった。

急遽出演が決まったという彼が、アコギで弾き語った「イマジンを聴かせてくれ」。たった一回聴いたその歌に、鳥肌が立つような衝撃を受けたのだ。

そこで、Youtube動画をチェックし、CD『僕の事情』もゲット。

愛聴しながら、ああ、札幌に飛んでライブが見たい、けどコロナが終息しないとなぁ、と歯嚙みする毎日。あ、言い忘れましたが、札バン研究所主宰の吉高は、東京在住です。

ところがなんと、2021年になって、Twitterに本人が嬉しい告知。「東名阪ツアーやります!」

最終的に名古屋は中止になったが、東京と関西は実施。

東京、2021年6月4,5,6日。その内、5日新宿ロックンロール以外全部嘘は、予定があったため涙を飲んで断念。なので、4日下北沢ろくでもない夜、6日高円寺moon stompのステージをレポートしたい。

先に結論から言っておくと、いや、もう、ヤバイ。圧巻。期待を遥かに凌駕するパフォーマンスだった。

しかし、それだけでは単なる感想。研究にはならないので、以下、何がどう凄かったかを、分析してみよう。


ワンステージがひとつの世界

うっそりとマイクの前に立ったあずまりゅーたは、黒っぽい、だぼっとした服にほっそりした全身を包み、抱えたアコギも黒。特徴的なラウンドショルダーは遠目にもギブソンとわかり、ピックガードの白がやけに際立つ。

ワンステージ30分。そのギターが弾き出す強力なグルーブは、テンポこそ変われど終始途切れることがない。MCの間も掻き鳴らされ続け、ライブハウスの空気を揺らし続けた。楽曲によってはディストーションがかけられ、エレキのように吠えまくった。

MCも歌と一体になり、時には歌の途中に挟み込まれ、全体がひとつの流れになっている。だから終わってみれば、何曲かの歌を聴いた、と言うより、壮大な一篇のシンフォニーを聴いたかのような充実感だ。

それは単にギターを弾き続けているから、というばかりではなく、ひとつのステージが強固な世界観に貫かれているからなのだ。

では、どんな世界なのか?


複雑な感情に溢れた言葉たちの奔流

CDのタイトルが『僕の事情』であることは、非常に重要だ。

あずまりゅーたの書く歌詞は、タイトル通り、徹底して「自分」を語っている。

いや、もちろんすべての音楽は自己表現なのだけど、ここで言うのは、ナルシスティックな「私の想い」だの「私の主張」だのではない。

古風に「赤裸々」と言いたくなるような、厳しく、苛烈に、自己というものを見つめて、見つめきって、生々しいほどに、痛々しいほどにさらけ出す。それが「僕の事情」なのだ。

しかし、決して露悪趣味にならないのは、クールな自己観察と、高いレベルに昇華された表現があるからだ。

自分に溺れるのではなく、他者というもの、それは時に恋人であったり、社会であったりするのだが、そうした周囲への目配りも周到に張り巡らされている。そうでなければ、

  君は僕に愛してると言っている側から/日本政府は戦闘機を買いました (「イマジンを聴かせてくれ」)

  メンフィス通りには雨が降る/知らない奴らがどこかで見張ってる(「メンフィス通り」)

なんて歌詞は書けない。

そこには、聴き手に対する「誠実さ」と、表現に対する「真摯さ」がある。

ステージに立つあずまりゅーたは、激しいグルーブに乗せて、その美しくて、鋭くて、複雑な感情に溢れた言葉たちの奔流を、切れ目なくわれわれに届けた。下北沢でも、高円寺でも。

それを呆然と受け止めながら、やがてそうした感情と同じものが、自分の心の底にもうごめいているのを感じた。そしてマグマのように、熱い共感が噴き上げてきた。


演劇的な、その歌唱

このように、複雑で強い感情に満ちた楽曲を、あずまりゅーたはその感情が込み上げるままに歌った。

CDでは、ある程度抑制され、コントロールされているが、ライブでは一切のリミッターを外したかのように、溢れる想いのまま、時に歌の構成や歌詞さえも変え、リズムに乗ったり外したり、自由自在にパフォーマンスする。

その即興性は、まさにライブ!

それゆえ、ピッチが甘くなることもある。そもそも彼は、技術的に「上手い」シンガーではない。しかし、だからこそ伝わってくるものがある。歌の最後で、意図的にピッチを極端にフォールダウンする場面も多々あったが、その時の声には独特の色気が漂っていた。

そして何より印象的だったのは、歌唱の演劇性だ。

先に、すべての曲が「自分」を表現している、と書いた。しかし、だからと言って、すべての曲の主人公が「僕」ではない。

例えば「ライブハウスとイベンター」という曲の主人公は、女性である。女性の言葉で女性の気持ちを男性が歌う、いわゆる「女歌」だ。

ただ、この女性は「自分の彼女」なのである。自分の彼女の言葉を通して、自分を表現した歌を、自分で歌う。ややこしくも、複雑な階層を持った曲なのだが、詳しい分析は長くなるので別稿に譲る。ともかく、ここでは自分の彼女を演じている。自分の彼女になりきって歌っているのだ。

いや、自分の一人称であっても、その歌を書いた時の「自分」といまの「自分」は、やはり別物だ。したがって、「過去の自分」を演じているとも言える。そしてその時の自分の感情を、ステージで再現するのである。

こうした演劇的な歌唱スタイルは、実はシャソンではよく見られる。役者のように身振り手振りを巧みに活かして、演じるように歌うスタイル。しかし、アコギの弾き語りの、音楽的にはロック、フォークのジャンルに位置づけられるようなアーティストが、2021年のいま、こうした表現方法を取るのは希少だし、独創的ではないだろうか。

もっとも本人は、自分にとって自然なやり方を、自然に選んでいるだけなんだろうけど。


各楽曲の深掘りは別稿で

それぞれの楽曲について、まだまだ語りたいことがあるのだが、長くなるので、先に書いたようにCD『僕の事情』評として稿を改めたい。

ともあれ、これを書いている2021年6月10日現在、あずまりゅーたは東京公演を終え、関西にいるか、移動中のはず。

兵庫、大阪方面に在住の方は、チャンスです。







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