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【放課後日本語クラスから②】彼らは〈欠けた〉存在なのか

 こんにちは。公立高校で日本語指導員をしている、くすのきと申します。

 前回の記事のなかで、私はある日本語教師の学習会でのエピソードを書きました。

 自分らしさを自由に表現して周囲の人々と交流し、幸せに生きるためには、母語の力が欠かせないこと。そして母語で考え、書き、話すことの大切さについて、私には想像力が足りなかったのでは。
 そのことに気づかされたという、お恥ずかしいお話です。

 この体験の後、母語は(語意としてだけではなく)新しい面を見せながら私の中にとどまり、さまざまな考え方や場面に接するなかで、日々心の中を浮いたり沈んだりしています。
 海外につながる子どもたちを考える際の、いわば私を映す鏡のような存在になっているのかもしれません。

 学習会でのエピソードもそうですが、1冊の本に触れたことも、そのきっかけとなりました。

言葉が人をつくるということ

 学習会の終了後ほどなくして、講師の方から「思いをことばに綴っていくための技術が、簡単な日本語と分量で、とてもわかりやすくまとめられています。ご参考までに!」というメッセージとともに、1冊の図書が紹介されました。
 言語教育学者・細川英夫先生の『自分の〈ことば〉をつくる』(ディスカヴァー携書)という本です。

 「まえがき」に「新書の体裁であるために、読者にはビジネスパーソンの方々も多いかもしれません」と書かれているように、平明な語り口やかみ砕かれた表現で内容は進行していきます。

 しかし、とくに日本語教師や学習者を読者対象にしているわけではないのに、文中では、私は自分が試されるような言葉や文章にちょくちょく出くわすことになりました。

 ある意味、この間、ぼんやり思い浮かべてきたことが言語化されて目の前に示された、という感じでしょうか。

 今、 ことば の 教育 にとって 重要 なのは、 ことば を どの よう に 習得 する かでは なく、 その ことば で〈 何 を〉 語る か、 という こと。 その 何 かとは、 学び 手 自身 の 自分 の テーマ( 好き・興味・関心) の 語り そのもの で ある こと は まちがい の ない ところ です。
   細川英雄「自分の〈ことば〉をつくる 」(ディスカヴァー携書) より

〈欠けた〉人間などいない


 母語について語られた箇所もありました。

 すべて の 人 たち に 共通 し て いる のは、 だれ でも「 考える」 ため の ことば を 一つ もっ て いる という こと だ。 その 考える ため の ことば は、 多く の 場合、 母親 を はじめ と する 家族 との コミュニケーション の 中 で 獲得 さ れる ため に、「 母語」 と 呼ば れ て いる。 
 この「 母語」 によって、 わたし たち は さまざま な こと を「 考え」、 それ を 相手 に 伝える ため に「 話し たり、 書い たり」 する。 だから、 この 世界 には 六十 億 の「 考え て いる こと」 が 存在 し て いる こと に なる の だ。
    細川英雄「自分の〈ことば〉をつくる」(ディスカヴァー携書) より

 私はいま、日本語指導員として担当する生徒たちのことを、「日本語力が足りない」子どもたちととらえています。

 だから、教材を工夫して作り、真剣に生徒に向き合って、不足している日本語を一生懸命教える。それが生徒たちに必要なこと。そうすれば彼らの欠けた部分は、少しずつ満たされていくはずだ、と。

 確かに、教師の日々の姿勢としてはそれもアリなのかもしれません。
 でも、生徒たちには本当に何かが「欠けて」いるのでしょうか?

 さきほど引用した文章を読みながら、私のなかに焦りのような気持ちとともに湧き上がってきたのは、「いやいやちょっと待て。彼らはひとりの、まったき人間じゃないか!」という、当たり前の真実でした。

 欠けているから教えて、埋めてあげよう。
 こうして言葉にしてみると、そのあまりの浅薄さに身がすくむ思いがします

 JSL高校生一人ひとりのなかにそれぞれの思いや感情があり、それを表現すべき言葉(母語)が、混沌としたままふわふわと渦を巻いているはず。それは私と何ら変わることはないでしょう。

 生徒たちがカタチにしたがっている思いに耳を傾けること。そしてそれを日本語という器に移し替えるのを手伝うこと。一見、シンプルに聞こえるその作業を地道に続けることが、私の仕事なのかもしれません。

 しかしそれでもなお、一人ひとりのなかの言葉にしきれない思いのほうが、はるかに大きいはずです。であるなら、少なくとも、せめてそのことに自覚的でありたい。いまはそんなふうに感じています。

clubhouse、聴いてみた

 ところで、最近何度かJSL中高生の日本語指導をテーマにしたclubhouseを聴く機会がありました。

 「いゃ~そんなことが?」「ん? それはどういうこと?」「え、すごい!」「私はそうは思わないけど」などなど。
 あるときはただ聴きながら、あるときは厚かましくもスピーカーとして話しながらふと感じるのは、あれだけ「日本語指導員についての情報がないない😰」と焦りを募らせていたのがウソのように、外の世界とつながるチャンスはあるということです。

 日本語指導員の仕事内容や雇用形態は、自治体や教育委員会、各学校の考え方や方針によって大きく異なります。
 そんなごく基本的な知識を得ることにさえ、なかなかたどり着けなかった私は、いつも不安や焦燥を抱えていました。いまも指導内容や指導方法には、やみくも感、行き当たりばったり感、オタオタ感がぬぐえません。

 ところがclubhouseを聴いてみると、そんな指導員は私だけではなく、地域を問わずじつはとても多く、ぶつかる壁や悩み、迷いなども共通しているようなのです。
 違うのは、実際の体験の内容。これについては、聴いていて驚かされることもいろいろとありました。

 正直なところ、clubhouseとの距離の取り方には、戸惑いを感じることもあります。

 そのうえでの私なりの対処法は、こだわりすぎないこと(ちょっと無責任😅)。そして、関心をいだいている領域のことなら、同じテーマをとりあえずは気楽に聴き続けてみるということです。

 自分の思いや考えとは別に、話はどんどん展開してしまうので、「どうして?」とか、「そこ、もうちょっと聴きたかった」という気持ちが生まれるのは当然のことでしょう。
 でもそのままにしておくと消化不良のまま残り続けるので、次の機会があったら、また聴いてみます。
 すると、その時に出た話題で解消できる場合がありますし、全然別の話題から、すとんと腑に落ちるようなヒントに出会うこともあります。

 Twitterなどには、開催のお知らせが流れます。関心と予定が合えば、アクセスしてみると、思わぬ情報と出会うことができるかもしれません。

 何よりも、私自身、 JSL高校生や自分の仕事についてもっと広い視野で見回すことができるように、外からの刺激を借りながら、自分の殻をコツコツと壊していきたいと思っています。


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