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【放課後日本語クラスから⑮】光ある場所へ歩め

こんにちは。公立高校の放課後補習クラスで日本語指導員をしている、くすのきと申します。

前回の投稿から、早くも1カ月近くが経ってしまいました。

しかしその間、放課後クラスを行ったのはわずか1回。
読んでくださっている方の中には、「また~? 年がら年中お休みなんだね!」と、呆れている方もいらっしゃるのではないかと思います。

そうなんです。緊急事態宣言、まん延防止等重点措置などのコロナ禍にある今年度は、継続的な支援ができない日々がえんえんと続いたまま、3月に至ってしまいました。

誰のせいでもないとも言えますが、そのなかで自分なりの最大限の工夫や努力ができたのかと問われると……胸を張って「やりきった!」と言うことができません。そんな生殺しのような苦しい気持ちを、多くの人が抱えているのでは、とも感じています。

さて、たった1回のクラスではありましたが、時間が経っても心に残っていることもあります。今年度の記録のためにも、それについて書き残しておきたいと思います。

学校からの手紙が読めない

3学期も後半に入って行われた前回の放課後クラス。いつもと同じように、全員が教室に集まるまで、一人ひとりの生徒と言葉を交わしていました。

その際の表情や態度、雰囲気からは、生徒がいつもと変わらないか、何かわだかまりをもっていないかなどが、意外にわかるものです。雑談は、それを念頭に置きながらその日の授業のトーンを整えるための、準備運動のようなものかもしれません。

この日、女子生徒Aさんが少し険しい顔をしてふさぎこんでいました。教室に現れた時はいつもと変わらない様子だったのに。

そう思って近づいてみると、Aさんの手元には学校からの一枚の手紙がありました。それは、2年生で使用する教科書とその合計金額、教科書の販売日にはその金額を持参するように伝えるお知らせの手紙でした。

おとなの日本人である私には、そのお知らせが意味することは当然ながら一目瞭然です。何をそんなに悩んでいるのか、それが逆にわからない気がするほどです。

私は最初の一行から、Aさんに向けて読んで説明していきました。とても簡単な文のように思えましたが、いったん最後まで読んでも、Aさんの表情はまったく晴れません。

そこで私は、手紙の裏に、本屋さん、教科書を置いた机、Aさんを描き、お金と教科書が交換されることを示す矢印を書きながら、同じ内容をもう一度繰り返しました。が、それでも「難しい……」「うーん」とうなっているので、もう一度図を示しながら、短い文でゆっくりと説明しました。

そうするうちに、「あー」と謎が解けたように、Aさんの表情から曇りが少しずつ消えていき、自分がいま理解したことが正しいのか、確認のための質問を始めました。

正直なところ、その時私はこれだけのことに心底ホッとしたのです。

決められた日にお金をもって教科書を買いに来る。
このとても簡単(だと思われる)なことができなければ、あとでAさんは先生から咎められるかもしれません。少なくとも、そのときに感じるであろう不条理感だけは免れることができるだろう。そう思ったのです。

JSL高校生にも必要な「合理的配慮」

この一件の問題の根は、どこにあるのでしょうか。

手紙にはルビはありませんでした。文章も日本人同士でわかるものとして書かれたものです。日本人生徒やその保護者向けに用意されたものを、そのまま外国人生徒にも配布したものと思われます。

多分、先生方は手紙をクラス全体に配ったあと、口頭で説明を加え、お金を準備する必要もあることから、保護者にもきちんと見せるように伝えたことでしょう。そこには「高校生なんだからわかって当たり前」という、的外れな先入観もあったことと思います。

しかし、Aさんはそれを何一つとして理解できていませんでした。そして重要だということは感じられたため、どうしたらいいのかわからずに孤独な苦しい思いを抱えていたのだと思います。

原因は様々に考えられますが(その点についての言及はここでは避けます)、外国人生徒に対する合理的配慮の欠如という観点からこのお手紙問題を捉えることができるのではないでしょうか。

私はAさんの少しゆるんだ雰囲気を感じながら、私たちにはまだまだ死角のように見えないものがあるということを感じずにはいられませんでした。

「Aさん」はたくさんいる?

同じ日、放課後クラスの終了後、B君が先生に向かってしきりに頭を下げている場面に出会いました。

B君は在日年数が短く、簡単な日本語を聞き、それに返事をすることはできますが、聞かれたことに対する答えを日本語で書くことには苦労している生徒です。

しかしそんな日本語力を補うように、誰とでも気軽に接するので、B君がいるとクラスの雰囲気が明るくなるような、そんな生徒でもあります。

B君の前に立っている先生は、「何度言っても提出物を出さない」「何度おうちの人に書類を書いてもらってくるように言っても、もらってこない」といったことを、少し強い調子で注意しています。B君は注意の一言一言に、はい、はい、と頭を下げているのです。

その様子に、Aさんの一件がかぶりました。

B君は本当に、先生の言うことをいい加減にスルーしているだけなのでしょうか。

もしかしたら、B君自身、自分が何を注意されているのかまったくわかっていないまま頭を下げているだけなのではないでしょうか。そしてそのことに、先生が気がついていないとしたら……。

大きな体を縮めながら剽軽にも見えるお辞儀をしているB君と先生の様子は、この日の私には何か痛々しいもののように映りました。

光と影を背負う生徒

放課後クラスが終わって、すっかり暗くなった帰り道。ショートカットとなる公園の中を歩いていくと、自転車を停めてベンチでスマホを見ている高校生がいることに気がつきました。

強い光が照らしている顔を見ると、それはほんの少し前に校内で見かけたB君でした。

「さよなら! 気をつけて帰ってね」と声をかけると、B君はさきほど見せていた笑顔がない顔を上げ、「さよなら」とつぶやくような声で返事をしてくれました。

6時を過ぎお腹も空くころ、補習クラスが終わったら一刻も早く家に帰りたいだろうに。学校でも家でもない、誰もいない暗い公園にわざわざ自転車を停め、B君は何を考えていたのでしょうか。

私たちに、もう少し相手の立場に立つ想像力があれば

目に見える笑顔に安心したり、何も言わないことを了解の合図のようにとらえることを問い直す、謙虚さがあれば。

JSL児童生徒は、この日本でもう少し生きやすくなるのではないでしょうか。

社会的な制度が整っていないために、現場合わせで日本語指導をしている人間だからこそ、時に、見えることがあります。これからも体験したことの意味を慎重に吟味しながら、この世界を見つめ続けていきたいと思います。

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