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野球少年の母になってしまった私の「野球が嫌い」の呪いを解くための長いspell…

遙かな記憶ゆえに、そして、最近まで喪失していた時期の記憶故にそれが事実だったのか、後から無意識に創作捏造したものか、今になってみれば不確な記憶なのだけれど。
野球は…嫌いなのよ。私。
野球周りの同調圧力が嫌いなのよ。私。

それは中学1年生の頃のこと、
時代はグループアイドルの黎明期。
モーニング娘。にSPEEDの時代。
私は,そこそこ実力ある合唱部の
自分で言うけどかわいい1年生でした。
色白黒髪背がスラリ、目鼻は人並みに整って、
茶色い瞳が大きな…何より根性は座っていたので、ステージで顔を上げて笑顔が作れる子だった。
音楽が大好きで。

多分だけれど、部全体で言えば、今でいう「坂道」系…を、お歌はお上手にした感じ…
合唱部、音響機器は使いません。
フィジカル勝負ですから。
どこも変わらないでしょう
実力ある合唱部というものはほぼ体育会系で、
体幹作りと走り込みは必須。

そして私、長距離走は早かったのです。

まだ平成も最初の頃で部活といえば、
猫も杓子も男子は「野球部」の時代。
中学部活の走り込みのコースなんてスタート位置が違うだけで全校一緒の起伏に富んだ学校外周。
文化部なので下だけジャージに着替えた
制服の白い綿シャツで、
うちの今の11歳の野球少年よりは、速かった(彼、今は週に2回タイムトライアルしているから比較可能なんです)。
当然、野球部の遅い子をぶち抜いておりました。
たらたら走るよりバシッと走った方が色々楽ちんなんですよ。抜かすの、楽しいし。
スピードに乗ってしまった方が負荷が少なくて。

きっとそれは、自分で言うのも何ですがとても素敵で、まぶしい存在だったでしょう。

目立ってしまった。
そんな事は別に望んでもいなかったんですが。

顔の形も何も違うのに広末涼子と呼ばれておりました。
唯一似ているとすれば、「色白」と「透明感」だけ。
言われるから、寄せてアヒル口は鏡の前で練習したように思います。
結果、自己評価は…「まず顔の形からして違う。」
でした。

そんなこんなでいつしか、校門に3年生野球部の出待ちの集団ができて、並んで挨拶されるようになってしまいました。

あれは、野球部が誰かを意図してお見送りするときの仕草だと知ったのは、息子が少年野球を始めてからのこと。

朝は遅刻ぎみなのでつかまらないけれど
夕方は部活の終了時間があるので定時につかまります。

それは、追々すぐに終わったけれど。
そして,その集団の解散時に「受験なのでファンクラブを解散します!」って、普通に良く書けるボールペンもらいました。
多分、私のペン立てにその後10年は刺さっていた…物には罪はないので。

先日娘に「しょうちゃん」のファンクラブの会費は?と聞かれたので、あのペンは100円以上300円以下くらいだろうから10円くらいだと思うよ。と目測を答えたら、腹を抱えて笑い転げていました。
ああ、当時の私は、あなたより幼かったのか。
ずーっとずーっと昔のことだから。

それは、ただの、3年生野球部の楽しいお遊び。
ただし、その結果私は、中学校の中で「調子乗ってる」って事になってしまって、「弄って良い存在」になってしまった。

その空気、その流れが動き始めたら個人の責任に帰する事のできない…でも、最初に始めたのは野球部のあの団結力だった。
後になってみればだけど。
無責任な盛り上がり、団結はきっと楽しかったでしょうね。

仲間同士の、楽しい文化。
その波及で起きる色々については、背中を向けていられる、強く豊かな社会。
それは「空気」だから誰も、最後まで責任取ったりはしない。

人数の多い部活中で、レギュラーになれるのはほんの一握りで、選に漏れた大多数はゆるりと走り込み、メニューで筋トレしたら、あとは楽しむしかないのだから…グローブだってバットだって練習場所だって人数分あったとは思えない。
ボール拾いだってそんな人数いらない。

自分たちのアイドルをみつけて騒ぐのは、それは楽しかった事でしょう。時代だったし。

私が調子乗っていたかどうか、だけれども。
私は確かに自分を客観視できていなかった。かもしれない。
年相応に幼かったはずです。
マイペースなのはいまだにどうしようもないし、
共感求められて、自分基準の正論返しちゃう(ただし、自分基準なので正解とは限らない)とか。
それは、13歳の未熟さ故にで、何か対処できたかっていうと、無理なんです。
対処すべき色々に戸惑うことしかできなかった。
結果「調子に乗ってる」「態度でかい」「むかつく」になってしまった。

「きらわれてるのに、わかってないよね。むかつく。」って言われていた頃には、嫌われていることは気がついていたし、もうその頃には、教師の目を盗んで、私を弄りその内容を集団で鑑賞する遊びが流行っていたので、危険を避けるために、注意深く行動するようになっていた。
元々、目も耳も良いのです。
集団でタラタラ動いている人を察知して逃げるのは、気をつけていればできました。
学校が荒れていた時代の名残りで、教員の目が多かったのもあったからかも。
階段の踊り場で次のフロアからの危険な集団の気配を察して回り道したり。
おかげさまで、空間認識能力も危険予知力も今は助かるけれど。

でも、まったく本当に心は追い込まれていて
橋から由良川に飛ぶってのはいったいどんな感じだろう?と思ってのぞいたら、蕩々と流れる清流に大きな鯉が悠々と泳いでいて、目を奪われたり、大きな白鷺と目が合ったりして、山の中で木にぶら下がるなんて美学に反する…な。とか思って眺めれば、四尾山のわきをトンビとカラスがドッグファイトしてたりして。
そんなわけでだけどとりあえずギリギリ生き残った。
(何にしろ、目が良いとお得です。丹波の山奥って本当に綺麗で、それが見えるから。)
その危うさは近所のおばちゃんが「大丈夫?」って母に電話するほどで、小学校の同級生のW君が、アイツやられてる!って小学校時の信頼寄せた先生に手紙を書くほどで、その先生がもう転勤後なのに「しょうちゃん、どう?」って家庭訪問しにくるほどで、つまり色んな方の目配り気配りの結果救われたのだけど。

勉強に逃げるしかなくて、学力と目力がついた。
返却されたテストの答え合わせに私の机を訪れてチェックして行ったW君は圧倒的に「今」も「これから」も幸せであるべきだと思う。
感謝します。

そんなわけで、救われて今があるけれど
私はずっと社会性のところがちょっとこじれたまま、乖離したまま大人になってしまった。
そして、あの頃のこと、本当に記憶がずーっと欠落していた。
最近娘が同じような年頃で何かにとても苦労しているので、思い出しつつあるのだけれど。

だから多分だけど野球が嫌いなんじゃなくて、あの暴力的で無責任な集団心理が嫌いなの。
ちゃんと、一生懸命野球してた人たちは私を困らせたりしなかった。
多分だけど。

だって、沢山の仲間の期待と応援を受けて精一杯頑張っていたから。
他の部活の1年生なんて気にする余裕なかったはず。

そして、私の息子はもうすでに2人ともそっち側だから、私は何も心配することはない。
ボールを投げ、ボールを追って、バットを振っていれば楽しくてニコニコしてしまう。
夕食後にはスキップで公園に素振りに行ってしまう。
かわいい後輩を集団で囲んでおもちゃにして困らせなくても、ちゃんと楽しい。
(私がどんなに状況が辛くても音楽が楽しくて仕方が無かったように)

体幹鍛えて、まっすぐ前向いて行こう。

空気は読むものでも、乗るものでもなくて
吸うもので作るものだよ。

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